イード、おめでとうございます 2022年(ヒジュラ暦1443年)

`おしらせ
イードに祝福あれ

終わりは突然やってきた

前日までの新聞記事で、おそらく5月2日のマグリブまでだと思い、ツイートもしていた年のラマダーン。大塚モスクに関係のある「新月観測日本委員会」が、マレーシアでのクレセントムーンの観測を伝えくれていた。これで、今年のラマダーンは、終了。急転直下の幕引きという印象だ。

実は、懇意にしているバングラデシュ人から1日の夜10時過ぎにイード・ムバーラクの連絡をもらった。一瞬喜んだが、何かの間違いがあってはいけないと思い、ネット上に情報を探した。ところがなかなか見つからず、ようやくたどり着いたのが、この「新月観測日本委員会」の情報だった。今年のラマダーンは29日間だったのですねという確認も取れ、ツイッターに追加投稿もした。

太陽と月

それにしても神様のやることは凄い。人間は、すぐ思い込み、信じ込む。しかもそれを自分の中にしまっておけずツイートなどしてしまう。自分で自分を振り回す。もう少し慎重にしておけばよかったと思ってもいつも後の祭りだ。

太陽暦になれてしまうと、月が見えたか見えなかったかなどとは没交渉に日々を過ごすことになる。太陽暦の感覚でラマダーンの最終日を扱おうとすれば、月の観測の有無など関係なく日を決めてしまえとなる。トルコなどはそちらのタイプだ。社会生活への支障は、格段に少ないように思われる。

神の思い、人の思い

しかし、ラマダーンのサウムは天地を創造し動かしているアッラーとの間の決め事である。人との決め事でも、社会との決め事でも、土着の神々との決め事でもない。人間同士が予想し、決めたところで、アッラーの決めたとおりになるとは限らない。

思い通りにはならないのは、世の中だけではない。天気も思い通りにも予測通りにもならない。そのことは知っているつもりでも、今度は逆にそれに目を囚われて、天気の後ろに控える存在のことは忘れてしまう。月の観測とその情報は、そんなことを確認する機会になっている。軽率で、間違いを犯してばかりの自分を振り返る機会でもある。

神の計略に人間の計略はとても及ばない。確かにそうだ。

﴿وَيَمْكُرُونَ وَيَمْكُرُ اللَّهُ ۖ وَاللَّهُ خَيْرُ الْمَاكِرِينَ ﴿٣٠﴾

ラマダーンの断食明けのイードおめでとう!

情報の根拠を手繰り、訂正ツイートを流し、時節柄、密を避けて自宅で行うイード礼拝に関するウェブサイト投稿で、ラマダーンは明けていった。

嬉しいことに、こんなにバタバタで、ラマダーンが突然終わったなんて言っている私にもアッラーはイードを齎してくれる。アッラーの懐の広さに感謝。アルハムドゥリッラーヒラッビルアーラミーン。

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