思い込みと決めつけが人の命を窮地に追い込む

徴(しるし)を読む
東京でカブールで

「東京都若者向け接種会場(渋谷)に希望者が殺到。長蛇の列。結局抽選に」

「カブール空港に出国希望者が殺到。死者まで」

ここ数日、衆目を集める、この二つの事象だが、命を守るための行動が命取りになりかねないという点で共通している。コロナウイルス感染に対する恐怖、タリバンの暴力の標的にされることに対する恐怖。自分だけではない。家族もまた同様に危機にさらされる。

カブールでは悪夢が現実のものになってしまった。「ISIS-K自爆テロで200人を殺傷」。即座に米国は無人機による報復攻撃を行なった。

 

東京とカブール。両者に共通するのが、これらが政治的な判断のミスによって引き起こされたと言いうる点だ。見通しが甘すぎる。

市町村が行なう接種の予約が非常にとりにくい現状がある中、渋谷で、若者(16歳から39歳)を対象に行う予約なし接種である。なぜ、200回や300回の想定で接種を開始しようとしたのか。

そこには、若者は接種に否定的という決めつけがあったように思う。これまで、第5波の感染拡大の要因の一つとして、酒類の販売・流通業者とともに、非難の矛先を向けられてきた若者たちである。否定的な論調は、ネット上で言われていたことを地上波が増幅し、それを政府が犯人を仕立てるために使った。統計は取り方によって結果が異なるが、思惑にあったデータを使う。もっともらしさに納得させられる。政府に対する責任は追及されない。

アフガニスタンについても、同様のことが言える。新国家樹立から20年。曲がりなりにも民主主義が根付き、現地の治安は政府の警察機能によって保たれるから、米軍が撤退しても大丈夫という決めつけ。専制主義に対して自由・民主主義を守るのは力でしかないことは、歴史的にもまた昨今の東シナ海情勢を見ても明らかだが、その想像力が働かない。

 

そしていずれのケースにおいても、その政策を身体を張って現場で実施する人々が振り回される。医療崩壊により自分が倒れたときのケアが約束されていない現状、あるいは、どこでテロ攻撃に晒され命を落とすかもしれない現状。

その状況に晒されているのは、ワクチン接種を希望して集まった人も、国外に脱出しようと空港に集まった人々同じだ。彼らこそ、最優先で、大切にされるべきなのに。

そこに透けて見えるのが、政策決定者たちの思惑、あるいは彼らの都合だ。彼らが選挙によってえらばれる以上、選挙は、どうしたって無視できない。選挙、そしてそのためのわかりやすい実績作り、そんな言葉が浮かんでしまう。それらが決めつけや思い込みとタッグを組んで、人々が命を守ろうとする行為を、命の危機に晒すことになってはいないか。

 

しかし、決めつけや思い込みによって、意思決定が左右されてしまうのは、政治的な決定に限った話ではない。

•「すなわち真理とは、それが錯覚であること忘却されてしまった錯覚……なのである」(ニーチェ『道徳以外の意味における真理と虚偽について』)。
•つまりオリエンタリズムは、「錯覚の真理」

ニーチェに従えば、錯覚もまた錯覚であることが忘れられるほど繰り返されれば「真理」になりうる。

家族なら、パートナーなら、父親なら、母親なら、友達ならという種類の決めつけや思い込みはあまた存在する。

自分の考えを正論であると思い込み、他の考えに対して考えなおしたり、譲ったりしないと、判断の誤りどころか大切な関係を失うことにもなりかねない。

たとえば、父親としての理想を夫に求める。夫がその理想を共有し、自分を変えてくれて当然だと思う。父親としての在り方は千差万別であっていいはずだが、自分が理想とする理想の夫の中に、夫を縛り付けて、それへの変化を迫る。これでは、良好な関係が続くことは難しい。

思い込みにしろ決めつけにしろそれらは個人が行なうことだから、その段階では、単なる一個人の意見だが、SNSにそれが拡散され、ある程度の賛同を得たとき、真理的な、あるいは正義的なものへと格上げされていく。それがまた厄介である。思い込みたい自分が前提なので、その拘束力が格段に強くなるからである。

そんな状況の中へ、突然、剥き出しの真実が姿を現す。批判的だと目されていた若者たちの長蛇の列であり、 滑走をはじめようとする大型飛行機にしがみつく、国外脱出希望者の殺到である。

 

一つ確かなことは、万物は流転するということ。 ニーチェが言うように真理が解釈だとするならば、真理は人の数、状況の数だけあることになる。真理とはしたがって、変化であり多様性自体なのだ。

政治にしても、法にしても、またさまざまな制度にしても、その流転についていけていない。自分もまた同様である。

変化に鈍感、ステレオタイプによる決めつけも激しい。思考停止した瞬間から変化からはおいていかれることになる。決めつけで縛り付けたり、括りつけたりしていないかに心を致す。少しずつでもそのあたりの改善を続け、やがてそれを多様性を認め合える世界の構築につなげたい。

ワクチン接種においても、またタリバンにしても、人間は誰であれ、いかなる状況に置かれたとしても、命も人生もある一人の人として最優先に守られなければならない。人間は、コロナの奴隷でも、ワクチンの奴隷でも、タリバンの奴隷でも暴力の奴隷でもないのだから。

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