イスラーム法から日本国憲法を考える:2020年憲法記念日に寄せて

イスラーム法新論
聖典クルアーン「大権章」

月の観測にかかるラマダーン月の終わり

2022年のラマダーンは、大方の予想に反して、5月1日、第29夜で終了した。まったく月が隠れてしまったところから、少しでも月が観測されれば、それで新しい月が始まる。1日の夜、日本では観測されなかったが、マレーシアで観測されたので即終了。観測されなければもう一晩というところだった。たった一晩ではあるが、当人たちには大問題である。各国で観測を担う人々がそれこそ血眼になって月を探す。

月も雲も地球も宇宙も天と地とその間にある凡てはアッラーの創造による。となると、月の観測は、その月にまつわるアッラーの意図と知とその力を確かめ知る行為である。観測にせよ、その情報にせよ、月の背後に存在する、その存在がいやが上にも浮き上がってくる。

奴隷としての人間とは

その大きな存在。人間が持っている権威、権勢、権能など気は計れない絶対で圧倒的な力を有するその存在は、究極の主権者。地上の主権者と区別したければ、大権者とでも言うべき存在。彼は、この世もあの世も含めてすべてを支配し、所有し、動かしている。凡てを司っているのだから、同時に立法者でもある。

人間は、この存在の下では、無力である。ただ無力であることに多くは気づかない。しかし、この大権者にして立法者たる存在から自由な者はいない。そもそも彼がいなければ、人間は誰一人として存在していないのだから。よって、人間は彼にとっての奴隷として表現される。好むと好まざるとにかかわらず、信じると信じないとかにかかわらず、この存在なしこの世に生を享けることはないのだ。

イバーダートという法の世界

その究極の大権者にして立法者としての存在が、御使いムハンマドを通じて下したのが聖典クルアーン。そして、そのクルアーンとムハンマドの言行を、不易不動の源泉とするが、イスラーム法(シャリ―ア・イスラーミーヤ)である。アッラーを立法者とする法という言い方もされる。

この法は、これらの不易不動の法源からの法発見によって形成される。膨大な解釈の蓄積物ということもできる。それは通常2つに分けて整理される。アッラーと人間の関係を律する領域と、人間同士の関係を律する領域である。前者をアラビア語で「イバーダート」という。アッラーの奴隷としての人間の行為「イバード」の複数形に当たる。イスラームで五行と呼ばれる信仰行為を中心にした規定群だ。

天国と地獄

信仰の宣言はアッラーの大権と立法を認めること。そして、礼拝、ザカート(喜捨)、サウム(斎戒)、巡礼を、アッラーの奴隷・下僕、つまり人間としての務めとして行うことになる。中でも毎日行われるのが礼拝。その「祈り」はアッラーへの服従を身をもって示す行為である。

聖典上、望ましい信者たちは、「信じて善行に勤しむ者たち」としてしばしば表現される。その対極にあるのが、「信じず、悪行を働く者たち」。アッラー、アッラーの書、天使、御使いムハンマド、来世、天命という信者であれば無条件に信じるこれらを否定する。クルアーンでは信者と不信心者が恐ろしくくっきりとしたコントラストで語られている。

信者たちに用意されているのが永遠の楽園。不信心者たちに用意されているのが、永遠の火獄である。イスラーム法の強制力の背景にあるのが、この天国と地獄なのである。信者たちが自発的に守っていることから言えば自律的な法秩序と言えるが、実際には、強力なイスラーム国家の権力がそれを担保していたことは想像に難くない。

「公法」の究極の形

とはいえ、信者たちにとっての永遠の楽園と、不信心者たちにとっての永遠の地獄。これらを提示して、秩序の維持を図る。この手法は、旧約聖書の律法主義を、現世のみならず、来世も巻き込んで拡張した形と言える。「公」は、しばしば一国家や、一地域、あるいは一民族や宗教徒に限定すされる。「公法」と言ったときには、そうした小さな「公」の方を指すことが多い。

しかしながら、アッラーは何より先に万有の主である。ムスリムの神ではなくすべての人々の神なのだ。したがって、アッラーにとっての「公」は、全人類ということになる。そして、アッラーが大権者であり立法者であるとするならば、その法は、まさに「公法」である。つまり、「公法」の究極の形が、ここに収められているのである。

地獄は遠い、いわんや天国をや

イスラーム法の問題点は、不信心者に対する構造的な圧倒的敵視である。不信心者に対する敵視あるいは、不信心を理由にした征服や略奪が、この共同体を正当化し、活気づかせ、繁栄させても来たのではないかと考えられる点である。律法主義的な流れは、ナショナリズムやエタティズムに絡めとられ、この敵視政策的な方向に大きく蛇行している。

ロシアのウクライナ侵攻と、ウクライナのロシア敵視、アメリカのロシア敵視の片棒を担がされた形で矢面に立つウクライナ。力が支配する世界と、カネが支配する世界の対立。核兵器の使用も取りざたされるような両者の抗争。すでに多くの命が失われているというのに。

イスラーム教徒の間でも、たとえば、サウジとイランが敵対関係。イエメンを舞台に内戦状態。

結局、あの世の世界まではとても行きつけていないのだ。

空虚な場所

日本国憲法には、経緯は何であれ、人類全体の法としての側面がある。ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾だけでない。東京をはじめとする空襲でも数十万の一般市民の命が失われている。太平洋戦争のこの地獄を味わったからこそのこの憲法なのである。

この世にあってはいけない地獄。それを創ってしまった戦争。だからこそ、この地獄からの復活の願いで作られたのが、この憲法なのだ。主権論の優れた研究者は、

「では、主権者、すなわち立法者はいないとはどういうことか。ルジャンドルの言葉を借りれば、立法者とは何者でもない空虚な場所であり、立法者とは「そこにない何かを現前させる」名にすぎないのである」(嘉戸一将『主権史論』岩波書店、2019年、131頁)

と言う。この空虚な場所を、アメリカが、カネが、核が占めてはいないだろうか。(「天国」「地獄」が見えるか?アッラーの書が見えるか?というのがイスラーム法からの問いである。さすがにアッラーは見えないが、彼からのメッセージは見えるし、読める。空虚なのは、人間の手あかを一切寄せ付けない創造主の場所だからではないのか。)

なぜ日本国憲法なのか

この世に地獄が創られてしまったのなら、天国を創ることも可能なはずだ。いや実際、イスラームの歴代の王たちは、クルアーンの天国の描写を具現化した王宮、庭園を造ってきた。

いや、今必要なのは、罪なき人の命が人間の敵対関係が繰り出す暴力によって失われることは、創造主に対する冒涜だという強い意識。そして、その愚を繰り返さないための、未来の世界の設計図だ。

日本国憲法が求めているのは、解釈を弄して戦争あるいは戦争参加を合法化することではない。生き地獄に晒されたすべての人々の平和の希求という祈りを読み取り続ける。そこにこの憲法の世界史的な存在意義がある。祈りの先に何があるか。神のみぞ知る。

 

2022/05/03 ©2022 Atsushi Kamal Okuda

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