自動車の自己診断装置のプログラムの中に、装置の製造者しか知りえないブラックボックス的な部分があるという。自動車製造業者すらその中身を知ることができない闇を運びながら、ユーザーは車を運転させられているというのである。安全を確保するための装置自体の安全対策があまりに無防備なのだ。「裸の車」を運転し続けているようなものだと武藤教授は嘆いてみせる。何とも皮肉な話である。
そこに見え隠れするのは、何かに従ってしまう人間の本性だ。この場合は、自己診断装置を含めた自動車という科学技術の粋を集めた産物を受け入れ、また、その搭載を義務付けている法律に従うという姿である。自動車の中身を検証し、あるいは、法律の是非について論じることはせず、むしろそれらを信頼して、自動車というマシンの利便性とその安全性を享受する。
それだけに、科学技術にしても法律にしても、情報はオープンにというのは、至極当然の要求だ。目に見えるものは、見えるようにしておこうということ。ブラックボックスに入れられていたのでは、何も見ることができない。
そもそも科学技術は、物質のレベルで、見ること、見えたものがあってはじめて成立する。科学技術の進歩に伴って、物質は電気信号を使って検知されるようになってきたが、電気回路を伝播するのは電磁波である。光は電磁波の一種であることから、結局、物質は、光があってはじめて見えるということに変わりはない。そうだとすれば、人間に見える、科学の対象となる世界は、すべて、光の速さより遅いものの世界だということになる。
光の速さよりも速い世界があるとするならば、それは、科学的に見ることはできない。それを目に見えないものの世界としたとき、たとえば信頼、愛情、幸福感などは、そちらの世界に属する。人が生きていく上では決して無視することのできない領域である。この見えないものの世界は、しばしば「価値観」とされ、何を価値とするのかは、個人に委ねられるということになる。
ということは、科学の世界は自然法則によって一貫して記述されうるのに対し、価値の世界は、多様で一貫性などとは無縁であると対比することができそうだ。しかし、不確定性原理が教えるように、量子力学の世界では、従来の運動法則では確かとされていたことが実はぼやっとしているに過ぎないことが明らかになっている。見たということ自体が、実はかなり曖昧なのだ。
こんな問題もある。同じものを見ても感じ方は個人によってまちまちだ。また一人の人間の中にあっても、見晴らしの良いテラスでゆったりと過ごす1分と、寿司詰めの満員電車の中でどこかに挟まれたカバンを持つ手が制御不能で、どこを見たものか目もやり場に困る状況で過ごす1分の長さは違う。同じものでも同じ時間でも受け取られ方はまさに多様である。
とはいえ、価値観がまったくバラバラでよいのかと言えばそれも違う。いや、バラバラであっていい部分とバラバラでは困る部分がある。自分や自分の民族がとにかく優れていて素晴らしいというナショナリズム的な価値観だけでほかの人やほかの民族と平和裏に付き合っていくことは難しい。お互い人間同士だからという価値観が前提にあればこそ、相手に対する敬意も生まれてくるというものだ。見えるものは必ずしも確かではなく、見えないものの中にも確かあるいは確かであってほしいことはいくらでもある。
法律であっても、皆が共有できる価値観があってこそ、皆が安心して従うことができるようになる。命の重さに国境も貧富の差もないといった人間として共有できる価値観が影を潜める一方で、自分や自分たちさえよければいいという種類の価値観が大手を振ると、強者必勝弱者必滅の世の中になる。
格差、戦争、不安・不満、自殺など根っこは案外近いところにある。身勝手な価値観が広がれば、社会の闇、心の闇は深く大きくなる一方だ。欲しいのは、こうした闇に人々を引きずり込む法ではなく、むしろこうした闇を解消してくれる法である。そのためには、人類全体で共有できる大きな価値観を探すところから始めなければならない。
この大きな価値観それ自体は見えない世界に属する。となれば、見えるものの世界を扱うための知としての科学では用が足りない。見えないものの世界を扱うための知が準備されなければならない。人類全体が共有できる価値観を持つためには、見えないものの世界の多様性を包括して一つにまとめるような考え方が必要である。つまり、見えないものの世界もまた究極的には、一つの真理あるいは一つの創造主にさかのぼることができるというような考え方である。
では何がこうした考え方を与えてくれるのであろうか。見える世界については、森羅万象に散りばめられたしるし、つまり現象を「見ること」が教えてくれる。これに対し見えない世界については、見える世界も見えない世界も創造したこれ以上ない大きな創造主(イスラームではこれをアッラーと呼ぶ)の存在を前提とし、その創造主の下したしるし、すなわち啓示を「読むこと」が教えてくれる*。読めば、見えない世界を知り、すべてが一つの創造主に帰する考え方に気づき、それを拡げることもできる。「アッラー・ドリブン」とも称しうるその考え方を知れば、現象としてのしるしを、創造主の創造のしるしとして「読むこと」も可能である。
しかも「読むこと」によって、人類全体に対する大きな価値観に即した人間としての務めも教えてもらえる。人々が自発的に、最大の創造主と向き合うと同時に互いに助け合うという行動までもが引き出されうるということである。科学技術の闇も、社会の闇も、心の闇も照らし出してくれる光の速さより速い光。それを扱うことのできる知がそこには用意されているのだ。
自動車の自己診断装置のブラックボックスの不気味さは、それ自体の中身が見えないこともさることながら、わたしたちが何に従っているのか、従うべきものを間違えているかもしれないという不安なのかもしれない。ブラックボックスの中身を照らし出すための見る力と、信じるものを間違えないための読む力が試されているとは言えまいか。
* イスラームでいえば、『聖典クルアーン』がその啓示が記された書となる。『聖典クルアーン』の最初の啓示が、《読め。》(凝血章1)であることは、このことを象徴する。
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