ラマダーン明けのイード(祝祭)を迎える前に
ラマダーンも、いよいよ残すところ数日。期間中クルアーンを読み進めていた方々は、一晩に1ジュズウ(約20頁)ずつ進んでいれば、残りも100頁を切っている頃。イードも数日後に見えてきた。ところで、ラマダーンのサウムの最後に、イードの朝の礼拝が始まる前までが期限とされる義務がある。ザカートゥルフィトルと呼ばれるザカートの拠出である。
ザカートゥルフィトル
「ザカート」とは、信者が義務として共同体のために拠出する浄財のこと。「フィトル」とは、断食を解くことという意味。「断食明けの喜捨」と訳すことができる。
ラマダーン月にひもじさと忍耐を共有した信者たち。その彼らが、ラマダーン明けのイード(祝祭)に際し、ラマダーン中の戯言、猥雑から自身を浄め、同時に貧者に対して食を施す。それが、ザカートゥルフィトルである。
そこで根拠となるのは、イブン・アッバースが伝えた、ムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)の次の言葉である。
アッラーの御使いはそれは斎戒者が(ラマダーン中の)ふざけた言葉や猥雑なおこないから身を浄め、困窮者たちに対し食べ物を施すために、断食明けのザカートを義務とした。もしもそれをイードの礼拝前に行えば、ザカートとして受け入れられるが、礼拝後になってしまうと、任意の浄財として扱われる。(イブン・アッバースが伝えたムハンマドの言葉。『アブー・ダーウードのスナン』「ザカートの書」「ザカートゥルフィトルの項」1609番)
このハディースによれば、イードの礼拝の前までに収めれば、義務が履行されたことになる。遅れた場合には、任意の浄財扱いとなり、義務を果たしたことにならない。
いつまでに?
これについては、イブン・ウマルからの伝承が伝えられている。
アッラーの御使いは、断食明けのザカーについて、人々が(イードの)礼拝に出かける前に済ませるよう命じた。
尚、イブン・ウマルは、それを1日あるいは2日前に済ませていたという。
(イブン・ウマルが伝えたムハンマドの言葉。『アブー・ダーウードのスナン』「ザカートの書」「ザカートゥルフィトル実施の項」1610番)
何を、どのくらい?
「小麦粒を1/2サーア、あるいはナツメヤシ、干しブドウ、大麦のいずれかを1サーア」(ズハイリー『イスラームのフィクフとその証拠』ほか)。サーアとは、3,800グラム。8イラクリトル(アブー・ハニーファとムハンマドの見解)に等しいとされる。
その他に、乾燥ヨーグルトやトウモロコシ、雑穀(黍・稗など)が挙げられることもある。
これらを限定的に解するか、あるいはこれらは例示として他の穀物・果実類にまで拡大するのかは、学派によって異なる。マーリキー学派は限定的だが、シャーフィイー学派は、それぞれの国やその場所で異なる主要な穀物にまで広げる。
それらの価値に等しい金銭の支払いについても、ハナフィー学派では認められるが、それ以外では金銭の支払いでは「断食明けのザカート」にはならないとされる。
(参考)ハディース上の根拠
根拠となる代表的なハディースを挙げておく。
イブン・ウマルが伝えるところによると、
アッラーの御使い(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)は、人々に対してラマダーンの断食明けのザカートを義務とした。1サーアのナツメヤシか1サーアの大麦が、自由人か奴隷か、男か女かを問わずすべてのムスリムに課せられた。
イブン・アッバースがラマダーンの最後にバスラの説教で語ったとされるところでは、
アッラーの御使いは、このサダカ(=断食明けのザカート)を、1サーアのナツメヤシか大麦、あるいは、半サーアの小麦とし、自由人にも奴隷にも、男性にも女性にも、年少者にも年長者にも課した。
さらに、アブー・サイードが伝えるところによれば、1サーアの食べ物、1サーアのナツメヤシ、1サーアの干しブドウ、1サーアの乾燥ヨーグルト。アブドゥッラー・サアラバの伝えるところでは、1サーアの小麦粒あるいは小麦、1サーアのナツメヤシ、1サーアの大麦が、挙げられている。また、小麦粒、あるいは小麦を2人で1サーアとするハディースもある。(アブドゥッラー・ブン・サアラバ)
日本ではどうするか
日本における主要な穀物は、コメであろう。コメの場合はどうなるのか、考えておこう。米も小麦と同様に半サーアであるとするならば、1,900グラムが断食明けザカートの供出量となる。概ねコメ2キロということになる。
家族以外の親戚や近所に、生活困窮の方が居る場合には、コメ2キロを届けることでこの義務を果たすことができる。そうでない場合には、コメ2キロに相当する金銭の支払いをもってこれに変えるほかはない。
コメ2キロの一般的な小売価格相場が、1,000から2,000円だとすれば、「断食明けのザカート」の額として提示されていることの多い「1,500円」は妥当な額だと言える。
食べるものの心配なくラマダーンの断食明けのを祝う
このような(祝いの)日には、彼ら(₌貧者たち)を貧困の問題から解放せよ
断食明けのザカートの本質を示すムハンマドの言葉である。イードの時ぐらいはせめて共同体から貧しさを追放しようという意味にもとれる。このザカートが、現物の供出にこだわり、家族の内部ではなく、それ以外の親戚、そしてさらに地域全体へ広げようという性質であることにもつながる。
預言者ムハンマドが生きていた時代には、現物を融通し合うことで、イードを等しく祝えたのであろう。ただ、イスラーム世界の内部にさえ乗り越えがたい格差が生じてしまっている今の時代である。
そんなときは、金銭によるザカートが圧倒的に強さを発揮する。様々な規制や経済制裁の関係もあって送金はままならないが、イードの喜びを世界の津々浦々で節制生活に励んだ人々と分かち合いたいものだ。
الله أعلم
コメント