「不定なるもの」を「一なるもの」とする一神教とは

アラビア語論・言語論
神々が集まる11月の稲佐の浜に日が沈む

ラー・イラーハ・イッラッラー لا إله إلا الله

「アッラー以外に神はない」と訳されるこのフレーズ。イスラーム教徒が普段口にするフレーズの中の代表格であろう。イスラームの神学の根幹を、端的に表現したフレーズだということもできる。

ただし、日本語で、「アッラー以外に神はない」といったとき。アッラー以外の神の存在が前提になっていて、それらではなく、アッラーが神だという。「アッラーだけが神である」というのがこの表現の軸になっていることが分かる。

「他にもいろいろあるけれど、アッラーだけが神である。」個人差はもちろんあると思われるが、「日本語でアッラー以外に神はない」と聞いた時に想起される内容である。

 

アラビア語で意味を考えておく

アラビア語の表現を見ておこう。

ラー لا とは、否定詞で、「~はない」。

イラーハ  إله とは、「神」

ラー・イラーハ  لا إله  で、「神はない」。ここでは全称否定になっている。

つまり、「神なんてものはまったくない」と言っている。神の存在が全否定され、意識の上では、神に関してまっさらなでまっ平らな地平が準備された格好だ。

それに続く「イッラー إلا」は、「~以外は」と例外の言及するための詞。そして、それに続く「アッラー الله 」という言葉。アッラーだけは例外だというのだ。

 

これによって、何もない地平に、忽然とアッラーが現前する。

「神なんてものは存在しない。ただし、アッラーだけは別」

目の前に、アッラーが浮かび上があがる。

 

「アッラー以外に神はない」は、「アッラーだけが神である」

ラー・イラーハ・イッラッラーを「アッラー以外に神はない」と訳しても、そして、その訳は間違っているとは、もちろん言えないのだけれど、ラー・イラーハが持っている、神について、一瞬、意識上がまっさらになるニュアンスが出てこない。否定語を文末に置く、日本語の宿命とも言えそうだ。

「アッラーだけが神である」という言い方と、「神はいない。アッラー以外は」は、前者が他の神の存在を認める言明になっているが、後者が神の存在を否定する言明になっている点で、まったく別のものになってしまっている。

日本語の世界は、神にあふれている。日常生活においても日々新しい神が登場するありさまだ。したがって、「アッラーだけが神である」という言い方は、あふれかえる神々の存在を否定する。日本語で、一神教と多神教という言葉からイメージされる両者の関係にも似る。両者はまさに水と油の関係になってしまう。

 

神が伺いを立てる「不定なるもの」

しかし、和辻が指摘したように、神という言葉の背後には「不定なるもの」が漂っているのだ。アッラーなどと名前は付けられていないけれど、神々に付いて回る「不定なるもの」。八百万の神々の世界においても、それらを包み込むような存在が「不定なるもの」として有り続けていたのである。

名前を与えられていないので、捉えどころがないのは当たり前。しかし、その存在に伺いを立てることなしに、神々は判断すらできない。そうなると、その神々は、全知全能の神ではないし、究極の存在とは言えない。

となれば、「神はいない。ただし、「不定なるもの」を以外は」である。

名前を与えられて前景に浮き上がるのではなく、「不定なるもの」として名前を与えられずに背景に溶け込んだ格好だ。「不定なるもの」が「一なるもの」になる一神教というありかたへの気づき。アッラーはすべてを御存知。

 

 

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