うちには神さまがたくさんいる:90歳のキモチ

90歳のキモチ
大地の恵みに感謝する

と呼ばれる存在が、一つなのかたくさんなのか。イスラーム教徒が、自分たちを他から差別化するときの最終的な基準である。

さて、季節を問わず、90歳のおばあちゃんのところには、知り合いや近所の人たちが、自分の家で穫れた農作物を届けてくれる。

秋の終わりから冬の初めにかけては、白菜、大根、カブ、小松菜、ホウレンソウ、里芋、サツマイモ、ゆず、銀杏などを届けていただいている。ときには、勝手口にそっと置かれていたりもする。

90歳は、「また神さまが来たよ」と言って喜ぶ。「うちには神さまがたくさんいる。本当に有り難い」は口癖で、感謝を忘れない。

超高齢化の波はこの片田舎にも押し寄せている。90歳は野菜作りから離れて数年が経つ。しかし、知り合いあるいはご近所同士の助け合いはまだまだ維持されていて、その輪の中で立派な手作り野菜が、季節に幾度となくときには大量に届けられる。

届けられるたびに聞くことになる「神さま」という言葉に、「それは神じゃないんだよ。神は一つなんだよ」と反発してみても、不快感、無駄な対立、争いが起こるだけである。

大勢の「神さま」が届けてくれる贈り物に感謝し、農作物がよく取れたことにも感謝する。知り合いやご近所さんとも、そして、自然の恵みを引き出す農作業にも、あるいは自然そのものに対しても、持続的で良好な関係を「神さま」という言葉が作っているとも言えそうだ。

神は「一つ」というけれど、「一つ」であるということが、実はわかりにくい。だからこそ名前を付けたというところがイスラームにはあるが、しかし、名前を付けると、今度は、それ以外のものが意識されてしまう。それしかないのにそれ以外が思い浮かんでしまう。これは矛盾だ。

それ以外が思い浮かんでいる時点でそれを「一なるもの」と言えるのかどうか。つまり「アッラー以外に神はない」と言わずにもその「一なるもの」を意識できるような「1」の在り方。それも併せてはじめて何とかその「1」にたどり着けるということではないのだろうか。神がいるというのは、あまりにも当たり前すぎて、本当に見失われがちなのである。

日本語が、あえて、その大きな「一つ」に名前を付けずに、八百万の神という形で、何にでも神様はいるという構成をとっているのは、一つの知恵なのかもしれない。

そこには、ある人々をつかまえて、「1」が分からないとか、受け容れないとかと言って、それだけの理由で、その人たちを悪者にしたり、不信心者呼ばわりして、非難や攻撃の対象にするようなことはないからだ。いたるところに神さまを見出だしながら、人々にも天にも感謝しながら生きている人に何の罪があろうか。

大勢の「神様」からのお届け物を大切にいただきながら、周りの人々とも自然ともよい関係を保ちつつ、痛いところも痒いところもなく、穏やかな冬晴れには、散歩も楽しむ。この頃また一段と元気に暮らす90歳である。アルハムドゥリッラー。

 

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