「誰といたの?」と聞かれて「友だちと一緒だった」を何という言うか

アラビア語論・言語論

「誰といたの?」あなたは誰からの質問だと思いましたか?

恋人、友達、家族、同僚。。いろいろな顔が浮かんだかと思います。そしていろいろな状況の中で聞かれる質問かと思います。

「友達と一緒だった」

果たして、相手の聞きたいことに答えられているのか。さらに質問が飛んできて、説明や場合によっては釈明を求められるかもしれません。

 

これが英語だったらどうでしょうか

I was with my friend.

(私は私の友達(一人)と一緒だった)

ところが

I was with my friends.

と友達が2人以上だったとしても、

日本語では、「友だちと一緒だった」となります。

日本語は、単数と複数の区別がないため生じる現象です。

 

これに対してアラビア語では

كنت مع صديقي

(私は私の男友達と一緒だった)

كنت مع صديقتي

(私は私の女友達と一緒だった)

كنت مع أصدقائي

(私は私の男性の友人たちと一緒だった)

كنت مع صديقاتي

(私は私の女性の友人たちと一緒だった)

さらに友達が2人の時には、友達二人と一緒だったという言い方を使わなければならないため、

さらにバリエーションは増えます。

 

名詞に性や単複のある言語/ない言語

「誰と一緒だったの?」と聞かれて、日本語では、友達の性別や人数を意識することなく、あるいは、それを表すことなく答えることができるのに対して、英語では数が、アラビヤ語では性別と数がそもそもの答えの中に織り込まれるということなのです。

日本には「個」とか「個人主義」がなかなか根付かないとされます。その原因の一つとして、名詞の多くが単複関係なく使えることが少なからず影響しているのではないかと思われます。「私」と「みんな」の間も、言葉こそ違えど、「私」の延長線上に容易に「みんな」を想起でき、「みんな」と言われたときに「私」がその中に含まれることに抵抗を感じない意識が言語の性質からも形成されやすいとは言えないでしょうか。

同様に、英語圏のジェンダーフリーとアラビヤ語圏のジェンダーフリーも、言語的な素地がかなり違うことになります。性で分けることをしない英語と、性で分けるアラビア語。

 

「誰といたの」より「生きていたの」に安堵する

「誰といたの?」の聞いたときに、「男友達といた」「女友達といた」「大勢でいた」「二人きりでいた」をそもそも答えてもらえる言語と、それは聞かないと教えてもらえない言語。言葉の織りなす社会の姿もその中に生きる人々の悩みも幸せの形も当然に変わってきます。

菅田将暉×小松奈菜主演の「糸」みて、中島みゆきの「糸」の歌詞を読み、さらに藤井風の「きらり」の世界観を加えてみると、

「誰といたの」は気にせずに

「生きていた」こと喜んで、

ミサンガ切れても、切れることない糸信じ、

苦境も「さらり」とかわしてく。大きな愛でかわしてく。

そんな今どきの日本語が織りなす世界が見えてくるかもしれない。

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