坂口安吾「悪妻論」の愛:強烈な反戦論

現代社会論

苦しみは人生の花

人はなんでも平和を愛せばいいと思うなら大間違い、平和、平静、平安、私はしかし、そんなものは好きではない。不安、苦しみ、悲しみ、そういうものの方が私は好きだ。

私は逆説を弄しているわけではない。人生の不幸、悲しみ、苦しみというものは厭悪、厭離するべきものときめこんで疑ることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ。

人はみんなインヘルノへ落ちるに決まっている

先日、本の広告を見ていたら、詩人の恋文を、二人が恋しながら、肉体関係のなかったゆえに神聖な恋だと書かれていた。おかしな神聖が有るものだ。精神の恋が清らかだなどとはインチキで、ゼウス様もおっしゃる通り行きずりの人妻に目をくれても姦淫に変わりはない。人間はみんな姦淫を犯しており、みんなインヘルノへ落ちるものにきまっている。

恋愛に「絶対」なんてありえない

だいたい恋愛などというものは、偶然なもので、たまたま知り合ったがために恋し合うにすぎず、知らなければそれまで、また、あらゆる人間を知っての上での選択ではなく、少数の周囲の人からの選択であるから、絶対などというものとは違う。その心情の基盤は極めて薄弱なものだ。年月が過ぎれば退屈もするし、欠点が分かれば嫌にもなり、ほかに心惹かれる人があれば、顔を見るのもイヤになる。

夫婦関係に平安なんて

それを押しての夫婦であり、矛盾をはらんでの人間関係であるから、平安よりも苦痛が多く、愛情よりも憎しみや呪いが多くなり、関係の深まるにつれて、むしろ対立が激しくなり、抜き差しならぬものとなるのが当然である。

ゼウス様は姦淫するなかれとおっしゃるけれど、それは無理ですよ、神様。人の心は姦淫を犯すのが当然で、人の心が思いあたわぬ何物もない。人の心には翼があるのだ。けれどもからだには翼がないから、天を翔けるわけにも行かず、地上において巣を営み、夫婦となり、姦淫するなかれ、とくる。それは無理だ。無理だから、苦しむ。当たり前だ。こういう無理を重ねながら、平安だったら、その平安はニセモノで、間に合わせの安物にきまっているのだ。だから良妻などというものは、ニセモノ、安物にすぎないのである。

夫婦は苦しめ、しかし、、、

苦しめそして苦しむのだ。それが人間の当然の生活なのだから。しかし流血の惨はどうかな?

ああ、戦争は野蛮だ!

坂口安吾「悪妻論」『堕落論』(角川文庫)152頁以下から抜粋

悪妻論は、強烈な反戦論でもある。

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