鬼滅の刃を、アラビヤ語で直訳すると「悪魔たちを殺す者」

アラビア語論・言語論

 ■鬼滅の刃 

 近頃何かと話題の「鬼滅の刃」。コロナ禍の中、映像関係のエンタメの人気をひとり占めした感さえあるテレビアニメであり劇場版映画でもある。

 アラビヤ語のオンライン講座の準備の一環で、竈門炭次郎もアラビア語をしゃべるというPPTを作ろう検索しているうちにたどり着いたのが、テレビアニメ版第19話だった。

 

■どんな訳がふさわしいか?

 この19話、日本語原題は、「ヒノカミ(火の神)」。この「神」というのが困ってしまう。八百万の神の文化から、唯一神アッラーの世界への翻訳。直訳タイプのタイトルでは、どうにも能がない。物語の文脈、そして、双方の文化や信仰の文脈を踏まえると果たしてどうなるのか。ちなみに「鬼滅の刃」自体のアラビヤ語訳を直訳すると「悪魔たちを殺す者」悪魔は聖典クルアーンにもしばしば登場するなど、イスラームにあってもなじみは深い。それでは、「ヒノカミ」は?ちょっと考えてみてほしい。

 

■アザーンで大炎上

 ところで、アラビア語関係で「鬼滅の刃」というと、アザーン絡みで大炎上が起きたことがあるという。 

「テレビアニメーション『鬼滅の刃』Blu-ray&DVD第4巻(2019年10月30日発売)に同梱されている特典CD(劇伴音楽集2)の収録音源(Track51)において、イスラム教に関わる音声の不適切な使用があったことが判明」2019.11.22、株式会社アニプレックス「テレビアニメーション『鬼滅の刃』第4巻 特典CD収録音源に関するお詫び」より引用)

 

 それは、アザーンがあたかも楽曲の歌詞であるかのようにミックスされている音源であった。当然のように、一部のイスラーム教徒から不快であるとのツイート

 

■アザーンの魅力!?

 余談ながら、アザーンでなく、「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)」など別のフレーズであれば、こうした反応は出なかったかもしれない。

 やや、不謹慎かもしれないけれど、制作者側が、それをアザーンと知らずに、しかも、アザーンの何たるかも知らないで、楽曲にまで仕上げてしまったということは、そこには、信仰や文化の違いを超えて、人々の注意を引き付ける何かがあるのかなとさえ思ってしまう。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

 

 ■「鬼滅で自滅しない」

 もちろん、今回の件、作る側に、イスラームにかかわる言語、文化、宗教といったものに関する知識と、それらが醸し出す文脈に対する理解の欠如があったことは、確かではある。

 しかし、指摘に対して、「今後、弊社では同様の事態を二度と起こさないように、イスラム教とその文化についての理解をより一層深め、音源の制作に一層の注意を払ってまいる所存です」とのメッセージが丁寧な謝罪とともに出されているのは美しい。

 これがもしも外交問題化、政治問題化するとなると、否応なく敵味方に色分けされて、踏み絵を踏まされるようなことが起こりかねないのだけれど、「鬼滅」では、そんな風になってほしくない。

  失敗は、あらゆる試みにつきもの。会社のメッセージにもあるように、知識がなかったのなら、学べばよいし、理解が足りないのだったら、理解に努めればよい。「鬼滅の刃」に限った話ではない。失敗や批判・非難を乗り越えていく。これも闘い。

 

 ■鬼はどこに?

 ただし私たちに手段として与えられているのは、日輪刀ではなくて、言葉。それも、相手の耳を閉じさせて、敵対関係を作ってしまう強い言葉ではなく、心を開き、心の眼を覚まして人としてのありようを取り戻してくれるやさしい言葉。適度な距離を保ちつつ緩やかに寄り添いあえるような。。ゆめゆめ、国際問題化や政治問題化という鬼に付け入るスキを与えてはいけない。何しろ、ただでさえいちばん手強い鬼が自分自身の中にいるかもしれないのだから。

 そしておそらく自分自身の中にいる鬼に勝利できたとき、その闘いは、ものすごく美しいものになる。一人ひとりの勝利が、この時代、この状況にふさわしい、新しい人々のつながりを生み出すもとになるはずだから。

 まさに「もっとも美しい戦闘」。それは、炭次郎の奇跡的な大逆転勝利で終わる第19話のアラビヤ語タイトルでもある。

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