■VUCAとは
Volatility―変動性、Uncertainty―不確実性、Complexity―複雑性、Ambiguity―曖昧性の頭文字をとったビジネス用語で、もともとは1990年代に軍事用語として誕生し、今や経営者の常識であるらしい。
健康社会学者の河合薫氏は、コロナ禍は、そのVUCAの世界だという。(「「首相!岡は岡でも」ビジョンなきリーダーとフォロワーの裏切り」「日経ビジネス」2021年1月19日)
その指摘によれば、「VUCAの世界では、とりわけリーダーの役割は重要で、「明確なビジョンなきリーダー」は、チームを崩壊させる」のであり、ビジョンもなく、フォロワーにも裏切られている現在の政府の対策の状況では、とてもコロナ禍に太刀打ちができない。
まずはVUCAの世界と戦うための道しるべとなるビジョンを示せと。それがなければ戦えないのだからというのが河合氏の主張と読んだ。
■どうりで振り回される
恐らく河合氏の論考は、菅内閣を叱咤激励するためのものであるため、ビジョンとフォロワーに限って論が進められているが、それを読んでいて、菅内閣の一向に的を射ない様々な対応自体が、VUCAの世界になっていやしないかと感じた。
変動的で不確実で複雑で曖昧。変わりやすく、確かなことは何もなく、いろいろが絡み合ってしまっていて、しかもはっきりしない。コロナに振り回されているのだからそうなってしまうのはやむを得ないところがあるにしても、コロナの感染拡大に振り回され、政府の対応にまた振り回される。VUCAのダブルバインドだ。
■もはや過去の成功体験は役立たない
そうしたダブルバインド的状況をいかに切り抜けるべきか。ヒントは意外にも同論考の中にあった。参考になるのは、次の記述だ。
そうした状況の中、「米国のビジネス世界でもVUCAという言葉が使われるようになり、特殊作戦部隊のオペレーションに学ぶ企業マネジメント研究や、個精鋭兵士たちのスキルに注目した個人のキャリアの磨き方の研究が急増した」のだという。
つまり、トップの立てた戦略にとらわれない特殊作戦部隊のオペレーション、あるいは、誰もが精鋭兵士になるための個人のキャリアと言ったものこそが、VUCAの世界を生き残るため中核に据えられるべきものであろう。
■ビジョンと裏切らないフォロワーの困った関係
ビジョンや裏切らないフォロワーも必要であろうが、つい先日米国国会議事堂で起きたのは、明確なビジョンの持ち主と彼を決して裏切らないフォロワーたちが起こした事態ではなかったか。
いや、他国を例に引くまでもない、「八紘一宇」、「鬼畜米英」などはあの時代、圧倒的にフォローされたビジョンではなかったか。コロナとの戦いで、首相がビジョンを示し、フォロワーも裏切ることなくついていったとしても、先例が意味をなさないVUCAの世界では、そのトップダウンでは、切り抜けられないのではと危惧する。
■この状態でも争っている人間たちへのメッセージとしてのコロナ
テロやテロとの戦いでは、一般市民が巻き沿いになることはあっても、市民自らが戦線の先頭に立つことはなかった。特殊部隊、精鋭部隊に任せておけばよかったのかもしれない。もちろん、制圧・撲滅・完全勝利をもって戦いが終わるという種類の戦いが想定されていてはじめて、特殊部隊や精鋭部隊の登場となるのではある。
しかし、まさに見えない敵コロナとの戦いにおいては、たとえ自宅で自粛していようが、一人一人が最前線に立たされている。そこに、それこそ国籍、人種、信仰、ジェンダー、貧富、性的指向、犯罪歴などによる差別があってはいけないのだ。あるのは、人間同士の距離を保った同胞意識。人間は、ただ人間であるというただそれだけの理由で人間として扱われる。
とはいえ、国も社会も家族も頼りにならないVUAC状態。それだったらどうするのか。自分自身による自分自身と自分の大切な人々が生き残るための日々の努力。できる限り隣の人や国にも思いをはせ、援けつつ。。その積み重ねが、共存にせよ、鎮圧にせよ、コロナ前提の社会を、きっとVUAC的に創っていくのではなかろうか。
そのためにはまず自分自身の中にある、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性をまずは認めるところからなのだろうと思う。
*イスラーム的に言えば、小ジハードから大ジハードへという話。自分自身に対するジハードという言い方もある。アッラーはすべてを御存知。
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