বল, বীর (バロ、ビーレ)
Say, Valiant,
「宣言せよ、勇者よ」(丹羽京子による邦訳『「反逆者」に現れた「私」:近代詩人としてのカジ・ノズルル・イスラム』(1993年「南アジア研究」第5号 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjasas1989/1993/5/1993_5_39/_pdf)
で始まるカジ・ノズルル・イスラームの『反逆者』(বিদ্রোহী ビドローヒー Bidrohi, the Rebel,1921)。
命令文で訳出されているが、原文のニュアンスはまったく異なると畏友ラフマーン氏に教えていただいた。現に、冒頭の বল がもしも命令形であったのなら、বলুন となっているはずである。
それに、命令形を使えば、民衆を扇動したかどで当局の拘束されてしまうという時代的な状況もある。
今後さらに精査を重ねる必要はあるが、「勇者よ、心の中から沸き起こる言葉があるはず」といったニュアンスだと理解した。
ここにいう勇者とは、呼びかけられているひとり一人のベンガルの人々が本来そうであるはずの姿なのである。つまり、当時、英国支配のもとですっかり飼いならされてしまった人々の中にあるはずの誇り高き人間性、あるいはベンガル人の輝く魂といった、彼らの内面、あるいは、もう一人の本来的な自己を英雄に見立てて呼びかけたのである。
彼らを心の芯から奮い立たせる最初の言葉が、
বল উন্নত মম শির! (Bala unnata mama śira!)
Say: High is my head!
宣言せよ、私は頭を高く上げている(丹羽京子による訳)
命令文ではないとすれば、「自分の頭は高いところにあるという言葉(がある)」とでもいえようか。この訳では、とても、人々を奮い立たせることはできないが。。)。
表現されていることはと言えば、頭は、主人に対する服従や恭順を表すために低いところにあるものではないということ、つまり権力者の目の前の地面や彼の手に擦り付けるためにあるのではないことを、お前は英雄なのだから思い出せということなのである。
みな人間なのだから、権力のあるなしにかかわらず、頭は高いところにあるものなのだということを思い出せと。。
冒頭の2行に過ぎないけれども、それでも圧倒的な地上の権力に対する徹底的な反逆の詩が、『反逆者』であることが伺える。
植民地支配の時よりはるかに巧妙に反逆者になることを諦めさせる有形無形の力が働く現代である。私たちにとっての反逆とは、何に対して何を目指すものなのか。これから数回にわたって、ラフマ―ン氏に教えを請いつつ、ベンガル語のテキストとベンガルの人々の心情も訪ねながら『反逆者』を読んでいこうと思う。
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