「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えている」について批判的に考えてみる

奥田は、「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えているのに対して、イジュティハードはそうした真理を個々の具体的な状況の中に取り込む人間の側からの働きかけである」とクルアーン、スンナとイジュティハードのイスラーム法の法源における位置関係を説明している(奥田敦『イスラーム法における法発見の必然性と必要性』博士論文、2004年。1頁)

アッラーは、真理によって創造を行なったのであるからそのアッラーから彼の預言者ムハンマドを通じて下されたクルアーンは真理であり、アッラーの御使いでもある預言者ムハンマドの言行もまたアッラーの真理によって裏打ちされているものであるとするならば、たしかに、クルアーンとスンナは時空を超えた真理を湛えているということができる。

ここで気になるのが、「時空を超えた真理」である。時空を超えるとはいったいいかなる事態であろうか。

物質主義者の言を借りれば、科学的に人類が知っているいちばん長い期間としての時間は、人類誕生から現在までということになる。もちろん、生命の誕生、地球の誕生、あるいは宇宙の誕生にまでさかのぼってもよいかもしれないが、仮に宇宙の誕生からの138億年を超える状況を想起できるのか。

同様に空間を超えるといったときに、地球はもちろん、宇宙空間、光速以上の速さで膨張し続けているとされる空間を超えるという状況を想起できるのか。

光速以上で膨張し続けていたとしても、情報の伝達は光速を超えられない(https://tmcosmos.org/cosfaq/faq/faq003.html)ため、空間自体は膨張しているにもかかわらず、情報のレベルでは光速は越えられないという状態においてなお、空間を超えているという状況を想起できるのであろうか。

日常的な言葉づかいに引き付けてこのことを考えてみよう。

時空を超えるとは、時間や空間の壁を越えるという意味合いで使われることが多いようで、時代や場所、あるいは、次元を超えてやってくるとか、行き来するとかの用法になじみがある人も多いようだ。

永遠もまた、時空を超えたところにあると言えるが、時空を超えることの説明と同様、物理的にそれを想起し検証することには、それこそなじまない概念といいうるのではないか。

さらに、「永遠に」は、国家や支配者たちの、常套句として用いられることがあるけれど、宇宙の膨張を超えることまではとても想定されてはいない。

いつでも、いつまでも、どこでも、どこまでもといった言葉に置き換えることも可能で、こちらは恋人たちの常套句であるけれど、むしろ儚さが漂う。

つまり、「時空を超える」という事態は、光の速さの制約をかけられている「見える」ことによる確認、つまり科学的な検証可能性とは別次元の事柄なのである。

つまり、「時空を超える」とは、たとえば、ともにあること、ともにいることが「ずっと」続くと「信じる」、あるいは「願う」、あるいは「祈る」ことによってはじめて生じる事態なのである。

 そうであったとするならば、「時空を超える真理」は、「真理だから時空を超える」のではなく、「時空を超えると信じるから真理になる」ということになり、科学的な意味で時空を超えているのかどうかとは、まさに別の次元の話になる。

奥田が陥っていた間違いは、時空を超えた真理は、時空を超えているのだから真理であり、それが真理である以上、イスラームの信徒のあるなしにかかわらず、普遍的に妥当するはずであるし、普遍的に妥当すべきだと考えていたところであろう。

イスラームの信徒にとっては、そうした配列で整合性が取れるのかもしれないが、アッラーの存在を信じるところからしか、時空を超える真理が成り立たないのだとすれば、信じない人々にとっては、時空を超える真理などあろうはずがないということになる。

となると、「クルアーン、スンナが時空を超えた真理を湛えている」という奥田の言明は、イスラームではそうなのですねという了解にはつながっても、イスラーム以外においても、クルアーン、スンナが真理であるということにはならなくなる。

これを前提とした法体系では、正義も真理も常にそしてすべてイスラームの側にあることにしかならず、イスラーム以外の人々は、信仰を呼びかけられることはあっても、呼びかけることはないし、圧倒的に教えられるだけであり、対立や敵対の火種をかこつことはあっても、フラットな協調的な関係になることはほとんど難しいのではなかろうか。

とはいえ、人間同士である以上、分かり合える何かは有しているはずであるし、信仰のあるなしにかかわらず、そのことを認め合えるような、信者としての人間ではなく、人間としての人間を守る法がむしろ求められてはいないであろうか。

奥田が「クルアーンとスンナが時空を超えた真理を湛えている」と説明している意味での、クルアーンとスンナ、そしてそれらが湛える時空を超えた真理を「超えた」法源の探究が、人間の法の構築に必須なのである。イスラーム法における法発見の必須性はここにあるのではなかろうか。

それは、聖典によれば、アッラーが、慈愛に満ちた万有の主であって、イスラーム教徒のみの主ではないにもかかわらず、イスラーム法は、イスラーム教徒の法でしかなく、彼ら以外に対しては一段下に見たような対応しか行わなわず、あるいは、イスラーム教徒の法ですらないという状況のまま、進化を止めてしまっている問題と言うこともできる。

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