■『反逆者』との出会い
バングラデシュの国民的詩人、カジ・ノズルル・イスラムと出会った。引き合わせてくれたのは、かつての職場にほど近くにあって週に何度も通ったインドバングラデシュ料理店の店主バングラディシュ人のラフマ―ン氏であった。ヒジュラ暦1441年のラマダーン月のイフタールに連日誘っていただいたのだ。イフタールが済むと、イスラームやムスリムの社会や文化などについて様々な話をした。いろいろと教えてもいただいた。
その後、不幸にもお店に連日通うことはできなくなってしまった。が、しかしラフマ―ン氏とはワンネス(一なること)について様々な構想をめぐらすことになった。その中で、人間観や宗教観についての私の話を聴いて思い出したのが、カジ・ノズルル・イスラムの『反逆者』であったというのだ。アイディアに通じるところがあるので、読んでみてはと勧められた。(『反逆者』については、ラフマ―ン氏に教わりながらのエッセイを、アッサラーム・アクションに書き始めている)
■一神教5.0+∞
ところで、私には、一神教5.0という温めている構想がある。1.0がイブラーヒームの一神教原型。2.0がユダヤ教。3.0が、キリスト教。そして4.0がイスラーム。ここまでは既存の一神教の神学的な展開で説明ができる。
一神教5.0は、いわゆる多神教を包摂する形の一神教。「信じる人々全体」を結んでいるはずの教えのレベルである。そこでは、〇〇教の神という考えは、乗り越えられる。そして、信じるということをしない物質主義者的な人々も含めて共有できる教えが「一神教5.0+∞」である。そのレベルにおいて、展開されるものが「教え」と呼ぶにふさわしいのか、「神」という言葉を用いるのが適切なのかどうかには、多くの検討の余地がある。
「神」というよりもおそらく「存在そのもの」と言ったほうが適切なのかもしれない。ただ有るだけのものだけれど、宇宙全体も、この世もあの世も包んでいるような大きな果てしない存在。
どこに行っても逃れることができず、かといって目に見えることもない。忘れがちであるけれど、しかし、確実にある。それ以外に存在を想起できないため一つしかないと言わざるを得ない「一なるもの」。
恐らくそういうただ有るもの、一つしかないために存在が分からないようなただ有るもの。それが「一神教5.0+∞」の従う対象になる。この段階にまで至って、同時にすべての人々が共有しうる地平あるいは次元が開けてくるのでないかと考える。
■反逆者は頭を上げた
さて、ノズルルイスラムの『反逆者』の中の「私」は、
私は創造者を殺すもの,悲嘆と灼熱をもたらし,
人をもてあそぶ神の胸を私は引き裂くだろう!
私は反逆者ブリグ,
神の胸に足跡を記す!
私は人をもてあそぶ神の胸を引き裂く!
丹下京子『「反逆者」にあらわれた「私」:近代詩人としてのカジ・ノズルル・イスラム』「南アジア研究第5号」(1993年)、44頁
私は永遠の反逆者である,勇者である―たったひとり,宇宙を越え,頭を高く上げた!
丹下は、この「私」を、「即物的な表現では不十分な「私」,つまり日常生活や社会生活を行なう「私」とは異なった次元の「自我」の意識を表現した」ものと説明している。
その「異次元の私」について丹下は、「永遠の反逆者」たる「私」、「たったひとり,宇宙を越え,頭を高く上げた」「私」は、全く孤独であるが故に、全宇宙に「私」しか存在しないが故に,唯一で永遠という普遍性を獲得している」としている。
■ベンガル文学の「あなた」と「私」
この普遍的な私の背景にあるベンガル文学における「私」の位置づけに関する説明も参考になる。
丹下によれば、近代以前のベンガル文学の主流は、ボイシュノブ(ヴァイシャナヴァ)と呼ばれるジャンル。西洋的な概念では抒情詩に当たるという。サンスクリット文学のジャヤデーヴァをその源に持つその抒情詩群が、ラーダーとクリシュナの恋物語をうたい、数百年にわたって維持してきた安定的な「あなた」(=神)と「私」(自己)の世界を維持してきたという。
「近代以前のベンガルで文学の主流を占めたのは、ボイシュノブ(ヴァイシュナヴァ)、つまり近代以降の―西洋的な―概念によれば叙情詩と呼ばれるところのものである。もちろん中世をボイシュノブのみによって語るのは乱暴に過ぎるが、近代以降の流れに照らして最もベンガル的な伝統を形成しているのはボイシュノブの叙情詩群である。それらの詩は,サンスクリット文学のジャヤデーヴァをその源に持ち,繰り返しラーダーとクリシュナの恋物語をうたい,その安定的な「あなた」(=神)と「私」(=自己)の世界を数百年にわたって維持してきたのである」(丹下京子『「反逆者」にあらわれた「私」:近代詩人としてのカジ・ノズルル・イスラム』「南アジア研究第5号」(1993年)、48頁)
■神を凌駕する
「ノズルルの表わした全宇宙にたったひとり立つ「私」は,多くの人々をとらえた。それは中世以来連綿と続いてきた「あなた」と「私」の関係における「あなた」を完全に陵駕する存在としての「私」であった。そしてその高らかな「私」の宣言―はそれがノズルルの個性によって初めて可能であったとはいえ―ベンガル文学の流れにおいて必然的に生まれた一つのカとなったのである」丹下京子『「反逆者」にあらわれた「私」:近代詩人としてのカジ・ノズルル・イスラム』「南アジア研究第5号」(1993年)、50頁。
「そしてその普遍的な「私」、どこまでも高められた自己をうたったというこの詩の性格こそが、ノズルルという詩人の存在を今日に至ってもなお,際だたせているのである。」
丹下京子『「反逆者」にあらわれた「私」:近代詩人としてのカジ・ノズルル・イスラム』「南アジア研究第5号」(1993年)、48頁
■ワンネスの世界育てるバングラデシュ
クルアーンに照らしてみれば、反逆者としての「私」は、まさにアッラーに成り代わったような「私」である。しかし、アッラーを人間の言葉の檻の中に閉じ込めて、あるいは、アッラーという権威の屋根の下に人間を閉じ込めているような状況下においては「反逆者たれ」である。永遠の反逆者は、凌駕された「あなた」が、再び、永遠の反逆者にふさわしい「あなた」になるのを待っているのかもしれない。
「一神教5.0+∞」では、普遍性、永遠性、「私」、「あなた」 などの諸概念に徹底的に反逆する。そのうえで新たな創造が当面の課題である。人が決定的に一人なのだとすれば、そして、人が一人で生き切れるほど強くないのだとすれば、それを受け止めてくれる何かが必要になる。つまり、一人ひとりにとっての「あなた」なり「居場所」なりが構想されなければならない。
一人や一つがどこまでも貫かれるワンネスの世界である。その場所として、あるいはその担い手として、ノズルルイスラームの『反逆者』に今なお心震わせるラフマ―ン氏のような人物が相応しい。さらにムスリムでありながらもベンガル語による豊かな詩の世界を愛するバングラディシュの人々も同様だ。
謝辞
現在なお示唆に富む論考を発表されていた丹下京子先生にこの場を借りて感謝申し上げます。大変参考に、そして勉強になりました。ありがとうございました。
先生の『ノズルル詩集』(花神社)が入手できないで困っております。入手方法等、ご存知の方いらっしゃいますか?assalaam.action@gmail.com アッサラーム・アクションまでご一報いただけたら幸いです。)
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