怒りを鎮める心の体操としての礼拝

アラビア語論・言語論
モミジに包まれて癒される

怒った人を落ち着かせるには

怒りがどうにも収まらないという悩みに苛まれてはいないだろうか。横暴な経営者に役立たずのレッテルを貼られ忖度と同調圧力も手伝って退職を余儀なくされ、やり場のない怒りが自分の中で拡大し続ける情念の渦巻として暴れまわるような。。

かつてキリスト者内村鑑三は、日本人の怒りについて怒ることにさえ浅いと指摘していたが、たとえ浅い怒りであっても、頻発すれば、自分の心は病むし人間関係もうまくいかない。それが、心を壊すほど深いところからの怒りで、長く続いたりすれば、人間性が崩壊する。どこか地震に似る。最後の日の地震では、大地がひとの所業について語りだすとされるが、強い怒りは、人間から言葉を奪う。言葉を奪われた人間は暴力に訴える。暴力の応酬が残すのは破壊だけだ。

アランは、幸福論の18話「ひざまずく」の中で、「怒った人は、ひざまずいて安らぎを求める。そして、正しくひざまずき怒りを追い出す姿勢をとれば必ずや安らぎが得られる」としている。現実を認めまいと反抗しいっそう不幸になっているような人には、「その人をひざまずかせ、両手の中に頭を埋めさせて反抗の動作を鎮めてやる」「この方が道理を説くよりずっといい」とし、「跪くというこの動きが絶大な効果を発揮し、荒れ狂う想像力を押さえ、絶望と怒りの作用をしばし休ませる」とする。

 

宗教の智慧

イスラームの礼拝がすぐに思い浮かんだが、アランは、「宗教には実際的な知恵が潜んでい」るとしながらも、宗教に頼ることには否定的だ。彼によれば神学者の説明は、人間の心の不備をついてかえって悩みが深まってしまうし、聖職者は、一般の信者に劣らず無知であり、迷信は当たり前のことを超自然的な要因を引っ張り出して説明するからである。おそらく、怒りを鎮め、情念の支配を癒してくれるに適切な運動や動作があるはずなのにそのことに人間はなかなか気づかなかったと言うのである。

幸い、イスラームでは、聖職者の存在を認めない。神学者は存在するが、神の存在やその絶対的な知をはじめ様々な神の在り様を探究するのであって、神に成り代わって信者の前に立ちはだかりはしない。もちろんこれは原則論であり、実際には、異なることが起きているかもしれないので注意が必要ではある。迷信とのかかわりで言えば、ことなのであろう。根拠があいまいな迷信を排除したところにあるのが、イスラームである。もしもイスラームが迷信だとするのなら、キリスト教もユダヤ教もすべて迷信だということになってしまう。

 

イスラームの礼拝と怒りの関係

しかし、ここでみておくべきは、礼拝の何たるかである。クルアーンを見ておこう。

《信者たちは、確かに大きな喜びを得る。祈りに謙虚な信者たち》(信者たち章1,2節 23:1-2)

قَدْ أَفْلَحَ الْمُؤْمِنُونَ ﴿١﴾ الَّذِينَ هُمْ فِي صَلَاتِهِمْ خَاشِعُونَ ﴿٢﴾

信者たち章は、冒頭に「信者たちは確かに大きな喜びを得た」とあり、それに引き続いて、具体的にどのような信者がそれに与るのかが挙げられているが、その筆頭が、「礼拝において謙虚な者たち」である。「謙虚」と訳されている言葉には、「従順な」という意味も「ひざまずいて」という意味もある。

また、

《人間は本当に忙しなく創られている。災厄に会えば歎き悲しみ、好運に会えば物惜しみになる。だが礼拝に常に励む者たちはそうではない》(階段章19-23節、70:19-23)

إِنَّ الْإِنْسَانَ خُلِقَ هَلُوعًا ﴿١٩﴾ إِذَا مَسَّهُ الشَّرُّ جَزُوعًا ﴿٢٠﴾ وَإِذَا مَسَّهُ الْخَيْرُ مَنُوعًا ﴿٢١﴾ إِلَّا الْمُصَلِّينَ ﴿٢٢﴾ الَّذِينَ هُمْ عَلَىٰ صَلَاتِهِمْ دَائِمُونَ ﴿٢٣﴾

忙しなくとは、結果をすぐに求めるというようなニュアンスを持つ。悪いことがあれば絶望し、好いことがあればそれをひとり占めしようとする。まさしく情念剥き出しの状態と言ってよいかもしれない。そうした人間の本性を抑制してくれるのが、礼拝なのである。

 

礼拝は心の体操

運動、動作という点では、ひざまずき、地面に額をつけ、両手の間に頭が置かれる点で、アランが描写している動作とほとんど重なる。重要なのは、それが定型的な動作だという点だ。「心の体操」(الرياضة الروحية)とも称される。(正確をきせば、ここでいう「心」は人間の内面のうちの「霊」(الروح)の部分を指す。「体操」と訳した言葉には、運動、スポーツの意味もある)。

そして信者においては、それを日に5回行うことが信徒の義務になっている。

《礼拝は昼間の両端において、また夜の初めの時に、務めを守れ。本当に善行は、悪行を消滅させる》(フード章114節 11:114)

《あなたに啓示された啓典を読誦し、礼拝の務めを守れ。本当に礼拝は、(人を)醜行と悪事から遠ざける。…》(蜘蛛章45節 29:45)

日に五回の礼拝し、その都度、行ないを振り返れば、たとえ醜行や悪事に傾いたとしても、確かに軌道修正ができそうだ。

 

イスラームというバイアスを外してみよう

イスラーム教徒以外の人たちからすれば、イスラーム教あるいはその文化の特殊性や異質性のみが強調されてしまって、まさか礼拝にそうした効用があることを自分たちに引き付けて理解することは難しい。

あるいは、信者にとっても、礼拝は義務であるという点のみが独り歩きしてしまって、形骸化が起きているかもしれない。

しかしながら、単純に動作という点から見てみると、怒りを収め、情念を抑え、傷つき疲れ果てた心を癒してくれる効果は期待できそうである。怒りが収まらなくて困っている皆さん、イスラームの礼拝を動作として見直してみてはいかがだろうか。心を癒す体操なのだから。

(そうした礼拝が定められているにもかかわらず、昨今のイスラーム教徒の世界は、内戦、紛争、対立といった、集団の情念によって引き起こされる事象に溢れてはいないか。祈られていないのか、足りないのか、祈りではもはや手に負えない自体が進行しているのか。あるいは、動作も言葉も奪われた状況の中に置かれているのか。とにかく、一人ひとりの心の平安を願う。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。

 

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