ロシア人「千年の奴隷」説の衝撃

現代社会論
ウクライナの小麦畑=2016年7月(ロイター=共同)

所有された者

奴隷という言葉で思いつくのが黒人奴隷。アフリカからアラブ人奴隷商人を通じてアメリカに連れて行かれた人々。人が主人だ。奴隷としてどれだけの人々が主人のために命を奪われ、またその解放にどれだけの犠牲が払われたことか。

アラブの歴史の中には、マムルーク朝というイスラーム王朝が支配した時代がある。マムルークとはアラビア語で「所有されたもの」つまり「奴隷」のこと。奴隷身分の騎兵を出自とする軍人とその子孫からスルターン(君主)が輩出されたためこの名がある。彼らには、スルターンのみならずあらゆる官職が解放されていたとされるが、それは、彼らが解放された奴隷だったから。

自由人と奴隷と

ところで、イスラームが始まったころ、メッカのクライシュ族の奴隷所有者たちの威張りちらしぶりといったらなかった。連続ドラマ、『ウマル』の中で主人の土着信仰から離れてイスラームに改宗しようとする者たちへの仕打ちは直視に耐えない。土中に生き埋めにし頭だけを出して、それをいたぶる。

イスラームは奴隷解放の教えでもある。人間を自由人と奴隷に分ける。奴隷の解放に対して功徳・報奨が認めれる。上記マムルーク朝のみならず、インドの奴隷王朝成立の背景にもなっている。つまり、人が従うのは、人ではない。人の主となれるのも人ではない。さらに人の支配するのも人ではない。人は、人の王にも主にも神にもなれないと考えるのだ。

「千年の奴隷」の衝撃

20世紀のソ連の作家ヴァシリー・グロスマンは、ロシア人の精神性を捉え「千年の奴隷だ」と言い切ったという(亀山郁夫)。衝撃の言葉だ。専制主義の奴隷になりやすいのだと。社会主義のイデオロギー然り、ロシア愛国主義に訴えるプーチン体制然り。ここ百年の話ではない。千年に渡ってそうだというのだ。

そのロシア人が兄弟としているのがウクライナ人。彼らの暮らす国土の多くは、豊かな黒土の穀倉地帯。その黒土の奴隷という意味ならば奴隷も理解できる。その黒土の奴隷として動かない自由こそが、自由なのだという主張も然り。

しかしそれがすり替わった。国家のために死ねる、国家を守るための戦争で死ねると。そうなると、国家なり国家体制という主人に命を捧げることに外ならない。人の生死を決めるのは、政治ではない。国家やその体制のために命を捧げることがどれほど愚かなことだったかを知る人々はいる。しかし、非国民扱いされて社会から排除されるのがおちだ。

奴隷獲得戦争

どうやら、奴隷制がないから、奴隷がいないと考えるのは間違いだ。奴隷制がない国の国民だから、自分は奴隷でないとも考えない方がよい。兵士はもちろん、戦争当事国の国民たちは、好むと好まざるとにかかわらず、皆隷属状態に置かれる。この隷属状態を緩和し、解消するためには、戦争自体を止めることが必須。しかし、当事者たちが武器を投入し、あるいは武器支援を受けて、戦い続けるというのだから、どうにもならない。戦争の奴隷。為政者たちも、国民も、情報も。

そして戦争の奴隷を支えるのが、カネの奴隷たち。亡者たちと言ったほうがよいか。千年の奴隷を遥かに超える。人々を自分たちの言いなりにして、所有物にして、ひたすらに服従させ、命を捧げさせる。

「万年の奴隷」の解放

国のために命を捧げるのは当然という物言いは一見否定のしようがない。しかし、国家も国家権力も資本主義も、従うべき主ではない。結局、何かに所有された者が、神に成り代わって、人々の人生と生活をほしいままにしている。神に成り代わっているかのようのものが、実は日常を取り囲んでいる。

カネや力、あるいはその裏側の貧困・強制労働は、まだ見えやすいかもしれない。さらに習慣、伝統、文化から、自分自身に至るまで。見えない鎖には際限がない。

絶対的な主の存在を前提としてみたとき、それは、全人類、全存在にとっての、王であり、主であり、神であるはず(『聖典クルアーン』114章)。その存在にたどり着く前に、代わりの神らしきものに取り囲まれ虜になってはいないか。「従うものを間違えない」と言われても、ピンと来ないかもしれない。まずは、解放されてもなお奴隷、その真実をまずは重く受け止めたい。

参考URL:

  • 「強権の中での自由」 プーチン氏を生んだロシアの土壌(毎日新聞)https://mainichi.jp/articles/20220312/k00/00m/030/162000c
  • 「マムルーク朝」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D

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