まず問題です。カッコに入る言葉を教えて下さい。
( )は肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲 学である
ヒント1
( )の目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにあります。
ヒント2
しかも、それには「いかなる差別をも伴うこと」がありません。
さて何でしょう?
答え
「オリンピズム」つまり近代オリンピックの精神です
正解が出ましたか。
- つまりオリンピック運動の精神の根幹をなすオリンピズムは、
- いかなる差別を伴うことなく、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立の奨励を目的とする生き方の哲学だというのです
- 「スポーツとは、一定のルールに則って勝敗を競ったり、楽しみを求めたりする身体活動などのことである。」
- 一定のルールに則って勝敗を競う身体活動など
- 一定のルールに則って楽しみを求める身体活動など
- 国民に誇りと喜び、夢と感動 を与え、国民のスポーツへの関心を高めるものである。
- これらを通じて、スポーツは、我が 国社会に活力を生み出し、国民経済の発展に広く寄与するものである。
- 結局圧倒的な一握りの勝者と、圧倒的大多数の敗北者を生む哲学になってはいないでしょうか。
- 沈んでしまった者たちは、均整のとれた全人になる人生哲学の実践の敗北者ですか?
- そんなバカな。。
- スポーツをすることは人権の 1 つである。 すべての個人はいかなる種類の差別も受けること なく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。
- 日本政府はスポーツを「健康で文化的な生活を営む上で不可欠」 なものとして位置づけ、スポーツを通じた幸福追求権を法律上明記しています。
- 懸念は、言いっぱなしに終わっていないかということ
- 古代ローマのコロッセウムさながらに、競う人と楽しむ人の分断が進むオリンピックの現状
- をかかえた現在の日本にあっては、空しく吹き去るだけの風のような人権なのかもしれません。
- 語源的にスポーツには「楽しい」の意味はありません
- アラビヤ語で
- スポーツのことを「リヤーダ」 رياضة と言います。
- (訓練・練習などの意味)
- 頭で同じことが繰り返せるようにする訓練が数学で、
- 身体で同じことが繰り返せるようにする訓練がスポーツ
- いや、スポーツさながらに何につけ勝ち負けでものを考えること自体の放棄が迫られているのが今
- 観光にかかわる産業が、大転換を迫られているのと同じように、スポーツにかかわる産業も同様である。
- せめて、「自分自身を運ぶ訓練としての数学」という視点から、オリンピックやスポーツのことを考え直す機会でもあるということを忘れないでいたい
つまりオリンピック運動の精神の根幹をなすオリンピズムは、
いかなる差別を伴うことなく、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立の奨励を目的とする生き方の哲学だというのです
それにしては、ずいぶんと残念なことが起きてしまいました。森・五輪組織委員会会長の伝えられている発言は、女性に対する差別あるいは蔑視であり、人間の尊厳への配慮は感じられないとされても仕方がありません。
政治に利用され、商業主義に支配されているオリンピックの現状において、差別がなく人間の尊厳が保たれる平和な社会の確立というのも、あくまでも目的はその「奨励」ですから、努力目標でしかありません。努力目標に法的な拘束力はありません。
この努力目標的なものに対して、風の吹き方、吹かせ方によって、対応は180度変わるというのが世の中というものかなとも思います。
とはいえ、森氏のひととなりも、事情も、背景も知らない筆者は、コメントする立場にはありません。「風」に乗って、加速させるような真似はするつもりはありません。
むしろ、ここでは、今回の件の根底に、オリンピック憲章自体が抱えている問題があるのではないかということについて考えてみたいと思います。
それでは、ここで、本日の第2問です。
オリンピック憲章の根本原則における「スポーツ」の定義を教えて下さい。
ヒントはありません
答えは「なし」です。
驚いたことに、オリンピック憲章「根本原則」の中にもJOCのHPにも「スポーツ」とは何かが示されていないのです。
一般の辞書に尋ねるほかはありません。
ここでは、もっともシンプルな定義を上げておきます(ウィキペディアの定義)。
「スポーツとは、一定のルールに則って勝敗を競ったり、楽しみを求めたりする身体活動などのことである。」
つまり、この定義に従えば、
スポーツには、
一定のルールに則って勝敗を競う身体活動など
一定のルールに則って楽しみを求める身体活動など
の二つの側面があることになります。
オリンピック、世界選手権、W杯などでは、勝敗を競う側面がより強く、心身の健康維持の手段としてのスポーツでは、楽しみを求める側面がより強いということができるかもしれません。
オリンピック憲章には、スポーツについての定義がありません。スポーツを勝敗を競うものととるか楽しみととるかは、読み手に任されています。
とはいえ、1番と垂直的な序列付けが大好きな人々がいたとしましょう。その人たちにとってオリンピックは、勝敗を競って、最終的に金メダルを獲得するための究極的な場であると認識されたとしても無理はないでしょう。
しかも、その人たちの政府が、
スポーツ選手の不断の努力に基づく国際競技大会におけるその国の選手の活躍について、
国民に誇りと喜び、夢と感動 を与え、国民のスポーツへの関心を高めるものである。
これらを通じて、スポーツは、我が 国社会に活力を生み出し、国民経済の発展に広く寄与するものである。
という姿勢(スポーツ基本法前文)であるとするならば、国家・国民のために勝つのがスポーツであり、国旗を背負って大会に挑む選手たちの役割だということになります。
プレッシャーを楽しみに変えて、活躍する者もいれば、プレッシャーに潰されて苦しみの中に沈んでしまう者もいる。
結局圧倒的な一握りの勝者と、圧倒的大多数の敗北者を生む哲学になってはいないでしょうか。
沈んでしまった者たちは、均整のとれた全人になる人生哲学の実践の敗北者ですか?
そんなバカな。。
その一方で、
オリンピック憲章の根本原則は、
スポーツをすることは人権の 1 つである。 すべての個人はいかなる種類の差別も受けること なく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。
ともしています(オリンピック憲章2020年版「オリンピズムの根本原則」4)。スポーツの実践は人権の一つなのです。
人権という以上、この世に人として生まれた以上は、与えられる権利の一つにスポーツの実践があるということになります。
人権は、侵害から守られ、その内容が実現されてはじめて意味を持ちます。
日本政府はスポーツを「健康で文化的な生活を営む上で不可欠」 なものとして位置づけ、スポーツを通じた幸福追求権を法律上明記しています。
「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、全ての人々の権利であ り、全ての国民がその自発性の下に、各々の関心、適性等に応じて、安全かつ公正な環境の 下で日常的にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画する ことのできる機会が確保されなければならない。」
いずれも(スポーツ基本法前文)
懸念は、言いっぱなしに終わっていないかということ
そこまで旗を掲げているのであれば、コロナ禍にあって、オリンピックにも優先して全国民に対して人権としてのスポーツ権を確保し、その実現に、観光・飲食業に対するGoTo~と同じような具体的な施策があっていいはずです。
古代ローマのコロッセウムさながらに、競う人と楽しむ人の分断が進むオリンピックの現状
をかかえた現在の日本にあっては、空しく吹き去るだけの風のような人権なのかもしれません。
辛いことが多い世の中だから、あるいは何につけ辛いと感じるように意識がセットされている所為なのか定かではないのだけれど、「楽」「楽しい」が何かにつけて強調される昨今の日本語の世界。スポーツも例外ではありません。「楽しい」の連発。
ところがです。
語源的にスポーツには「楽しい」の意味はありません
スポーツの語源は、ラテン語の deportare にあるとされます。スポーツ庁のHPにも丁寧な説明があります。
それは、「運び去る」「運搬する」という意味。
それが、精神的な次元に転じ、やがて、「義務からの気分転換、元気の回復」仕事や家事といった「日々の生活から離れる」をあらわすようになっていき、そのための、気晴らしや遊び、楽しみ、休養といった要素を指すようになったと言います。
ちなみにアラビヤ語を見てみると、スポーツのまたまた別のしかしある意味的を射た意味の展開を知ることができます。
アラビヤ語で
スポーツのことを「リヤーダ」 رياضة と言います。
(訓練・練習などの意味)
このリヤーダには、訓練、練習、実習、稽古といった意味が基本で、運動、体育、体操、スポーツ、また、散歩、散策、休憩、休息、そして、知的訓練、さらには数学という意味まであります。
この言葉の動詞は、「ラーダ」 راض (アラビア語では、大半のボキャブラリーが基本動詞の派生形として整理できるため、動詞の意味を見ておくことは、言葉のもとを考えるときに有効になります。)
ラーダは、飼いならす、家畜化する、訓練するなどの意味であるところから、アラビヤ語のスポーツは、訓練というニュアンスが強いものと考えられます。。
スポーツを複数形にすると科目名の数学になります。
と考えてみると、
アラビア語の世界では、
頭で同じことが繰り返せるようにする訓練が数学で、
身体で同じことが繰り返せるようにする訓練がスポーツ
と整理できそうです。
自分自身を運んで繰り返し同じことができるようになるまで訓練する
とまとめられるのではないかと思えます。
その成果が楽しみにつながり喜びにつながるということなのでしょう。
ところで、オリンピック憲章は、
「オリンピック ・ ムーブメントは、 オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、 協調の 取れた組織的、 普遍的、 恒久的活動である。 その活動を推し進めるのは最高機関の IOC である。 活動は 5 大陸にまたがり、 偉大なスポーツの祭典、 オリンピック競技大会に世界中 の選手を集めるとき、 頂点に達する。 そのシンボルは 5 つの結び合う輪である。」
と謳っています(オリンピック憲章2020年版「オリンピズムの根本原則」3)。
この普遍性と恒久性の見直しが迫られているのが今なのではないかなと思っています。
コロナが間違いなく5大陸にまたがって感染を繰り返し広げている中で、勝敗をつけなければいけないものがあるとすれば、競技スポーツではないからです。
いや、スポーツさながらに何につけ勝ち負けでものを考えること自体の放棄が迫られているのが今
なのではないでしょうか。
たしかに、女性蔑視はいけません。旧約聖書の中にさえ見出される女性蔑視ですから、それとの決別を敢行しているという文脈もあるわけで、それは、は並大抵ではありません。
「私は、その心が、わなと網のような女、その手が、かせのような女は、死よりも苦いものであることを見いだした。神を喜ばす者は彼女から逃れる。しかし罪びとは彼女に捕らえられる 」(『旧約聖書』伝道の書 7:26以下)
だからこそ、勝ち負けでものを見ることから少しでも離れたいのです。
オリンピック競技大会が、憲章の言う通りスポーツの頂点、つまり、一定のルールに則って勝敗を決める身体的活動の頂点に位置するのであれば、それ自体を考え直すべき時が今なおではないかと思うのです。
憲章に沿わない会長の女性蔑視発言問題の対応や事態の収拾に終始してしまえば、憲章それ自体については、あるいは、スポーツの在り方自体には誰も疑問をさしはさまないけれど、
今考えておきたいのは、憲章の根本それ自体の検証
だったのではないでしょうか。
ただでさえ、現実に押しつぶそうなギリギリの状態にのしかかってくるコロナ禍。ただでさえさえない気分は、ふさぎ込み、落ち込み、うつうつとしてきます。
たしかに、そんなときこそ「気晴らしで心が軽くなる」スポーツなのかもしれません。
しかしながら、一方で、食い扶持に窮する現実もああります。スポーツどころではありません。
スポーツは相当程度時間とお金に余裕がなければ始められないし、続けることもできません。
スポーツで「心身の健全な発達、健康及び体力の保持増進、精神的な充足感の獲得、自律 心その他の精神の涵(かん)養等」(スポーツ基本法)をまともに実現しようとしたら、経済的に立ち行かなくなるのが今でもあります。
そうなると、スポーツを日常的に行う権利が、実現される権利として存在するのかどうかも疑わしいのではないでしょうか。
観光にかかわる産業が、大転換を迫られているのと同じように、スポーツにかかわる産業も同様である。
特に、政治・経済・産業・行政・社会・文化をグローバル規模で巻き込んで、スポーツ祭典の頂点を自認するオリンピックが例外である理由がありません。
せめて、「自分自身を運ぶ訓練としての数学」という視点から、オリンピックやスポーツのことを考え直す機会でもあるということを忘れないでいたい
アッラーフ・アアラム。浅学の身です。いろいろ教えていただければ幸いです。
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