1.あらためて、地球はひとつ
新型コロナウイルスによる肺炎の発症と、その感染による死者の発生は、地球規模へと拡大した。その深刻すぎる影響は、私たちの日常がどれほどグローバル化の恩恵に与っていたのかを教えてくれている。観光業と関連のサービス産業や製造業はもちろん、国境をまたぐサプライチェーンでつながっている各種の製造業、それにかかわる諸産業も大打撃である。
問題は人々の移動である。国境をまたぐ種類の移動も、またそれぞれの国内での家庭と職場、家庭と学校の間の移動も、あるいは観光地へ、スポーツ・イベント会場への移動も、こうやってかなりの規模で押さえられてみると、この手の移動によってどれほど経済が動いていたのか、いやもっと露骨に言えば、人々の給料を生み出していたのかがわかるというものだ 。
そうした状況の中でも、いや、そうした状況だからこそ、インターネットは、いい意味でも悪い意味でも存在感が増している。テレワークにしても、ネット通販にしても、ニュースにしても、補習授業にしても、エンターテインメントにしても、デマや風評の拡散にしても、インターネットと、ネットの接続するデバイスは不可欠だ。インターネット情報には、依存的になったり、振り回されたりしないだけのリテラシーが必要だが、ビッグデータの操作によって人々の思考も行動も乗っ取られてしまいかねない状況があることも押さえておきたいところだ。
2.自然と人間の共生
ところで、パソコン、スマホ、ガラ携などのデバイスの電源を支えるリチウム電池の製造に欠かせないレアメタルにコバルトがある。このコバルト、コンゴ民主共和国が主要産地で劣悪な労働環境の中、手掘りで採掘がおこなわれていて、健康被害が深刻で、労働者の中には子供たちもいるという[i]。リチウム電池と言えば、吉野博士が昨年ノーベル化学賞を受賞して、博士本人の口から、リチウム電池が未来社会のインフラを構築しうるという見解も示されていた。充電や蓄電が可能な電池という意味での画期性に疑いはなく、メディアはお祝いムード一色で、リチウム電池生産の陰にはこうした負の部分があることについては、ほとんど言及がなされなかった。
グローバル化が一気に進んだり、生活が飛躍的に便利になったりする陰には、こうした、命の危険と隣り合わせの、あるいは、命と引き換えに仕事をする人々がいる。石見銀山もその例に漏れない。石見の銀が、当時、銅貨を銀貨に代えた中国の銀需要を満たし、その後スペインによってもたらされた南米からの銀も中国に持ち込まれ、アジアとアメリカ大陸とヨーロッパが銀によって結ばれるグローバル化が出現した。それ自体は、現代にもつながるグローバル化の曙光にも位置付けうるもので、石見の銀は、その有力な引き金の一つであったのだから、今もなお進行するグローバル化の歴史の中で特筆すべき存在のように思うが、世界遺産認定は茨の道だったようだ。一度は、顕著な「普遍的価値」の証明が不十分との理由で登録延期の勧告を受けたものの、その後の補足説明や外交活動を通じて、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが決め手になって、逆転登録にこぎつけたという[ii]。
現に、「石見銀山の登録に向けて日本側の代表として外交活動を率いた、近藤誠一ユネスコ大使は、2007年9月8日に、島根県大田市で開かれたシンポジウムの中で、銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国の政府代表などに対し、石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど、推薦書に記載していた自然に対する配慮の歴史(自然と人間の共生)を積極的に説明したところ、政府代表らの反応が良く強い手ごたえを感じたという[37]。」
登録延期が妥当という勧告のもと、登録へ向けた外交活動を率いた、近藤誠一ユネスコ大使自身が、自然に対する配慮、つまり「自然と人間の共生」の歴史の説明に対する各国政府代表らの反応に手ごたえを感じていた述懐している。
3.グローバル化を支える人々
この登録受理があったからこそ、世界遺産としての石見銀山と周辺地域はあるのだけれど、「21世紀が必要としている環境への配慮」にしても、「自然と人間の共生」にしても、一見持続可能的な試みの種がそこにあったように見えはするものの、石見銀山の過去をきれいごとに包んでしまっている感は否めない。たしかに労働者たちに対する様々な配慮や、自然に対する様々な配慮が施されていたことは、史実に基づいた説明であろう。しかし、労働者たちが危険にさらされていたことや、寿命が短かったことは指摘するまでもない。ガイド氏の説明を聞いて真っ先に思ったのは、福島原発事故後の対応に当たった、福島50と称された人々であり、日雇いで高い賃金に引き寄せられて、生存のために作業に従事した数になど数えてもらえない労働者たちであった。福島はあまりに特別な事例であったとしても、コバルト採掘に従事する、子供を含むコンゴの労働者たちは同じ状況にあるとはいえないであろうか。
「21世紀が必要としている環境への配慮」とか「自然と人間の共生」とかと言った物言いは、そうした労働者たちの存在を覆い隠す言説を生み出してしまう。それは、弱い人々の人権への配慮を欠いた、まさに今もありがちな、支配者は支配層にとっての持続的発展の物言いなりかねない。登録直後には年間で80万人を数えた観光客が、その後は、漸減し、現在では登録以前の水準に戻ってしまったという指摘もある。ガイドの回数は、過去最高を更新していて、そして実際それ自体はたしかに満足度の高いものではあったが、太田地区への来客の数の低下などに顕著なように、世界遺産の観光地としてはもう一つ振るわない。その理由の一つが、逆転登録の決め手になったこの二つのフレーズにあると筆者には思える。
4.山の痛み、人の痛みに寄り添う
筆者が間歩を案内していただいて感じたのは、よくもこんなに掘りつくしたものだということだった。つまり、人間の欲望の強さ、執念にも似た浅ましさである。山が痛いとか、くすぐったいとか、ましてはやめろとは言わないのをいいことに、本当によく掘ったものだ。山に話を聴けたなら、こんなにボロボロに食い尽くされましたと言うかもしれない。あるいは、人間のお役に立ててうれしいというかもしれない。植林までしてもらって本当に嬉しかったと。
もちろん山の気持ちはわからない。しかし、石見に生まれてしまった運命にしたがって、何も迷わずに、子供のころから採掘作業を始め、短い生涯を銀鉱山に捧げた人々がいた以上、石見銀山は、実は、人間の負の遺産でもある。世界文化遺産に指定されたからと言って、正の遺産としてだけ紹介しようとするからどこか綺麗ごとになってしまう。
良くも悪くも両面のあるお金の話、そしてそれによって体現される欲望の話である。そもそも大陸をまたいで、欲望によって世界が動くようになったのは、貨幣によって価値を交換できたり保持できたりするシステムが広がってからだ。その先頭に位置するのがこの場所。物質的には豊かで文化も花開いていたのかもしれない。労働者たちに対するケアが行われていたという事実もある。そういう側面に目が行くのは仕方がないが、どうしても忘れがちになるリチウム電池のコバルトを掘っている子供たちのこと。あるいは、原発関係で命を危険にさらしながら働いている人々のことである。
だからこそ、石見銀山は、グローバル文明の負の側面あるいは、人間の欲深さ、浅ましさを振り返る場所でもあってほしいと思うのだ。その中で犠牲になっていた人々に思いを寄せてみる。他人事と思えない人が多いのではないだろうか。そうすれば、我が身を振り返りつつ、自然の痛みも感じつつ、共感や愛着さえ生まれるかもしれない。
5.地上を旅して、
聖典クルアーンは言う。
{قَدْ خَلَتْ مِن قَبْلِكُمْ سُنَنٌ فَسِيرُواْ فِي الأَرْضِ فَانْظُرُواْ كَيْفَ كَانَ عَاقِبَةُ الْمُكَذَّبِينَ }137
《あなたがた以前にも多くの摂理の例があった、あなたがたは地上を旅して、真理を嘘という者の最後がどうであったかを見なさい。》(イムラーン家章3:137)
{وَلَقَدْ بَعَثْنَا فِي كُلِّ أُمَّةٍ رَّسُولاً أَنِ اعْبُدُواْ اللّهَ وَاجْتَنِبُواْ الطَّاغُوتَ فَمِنْهُم مَّنْ هَدَى اللّهُ وَمِنْهُم مَّنْ حَقَّتْ عَلَيْهِ الضَّلالَةُ فَسِيرُواْ فِي الأَرْضِ فَانظُرُواْ كَيْفَ كَانَ عَاقِبَةُ الْمُكَذِّبِينَ 36}
《本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と(命じた)。それでかれらの中には、アッラーの導かれた者もあり、また、迷誤が避けられない者もあった。それで地上を旅して、(真理を)拒否した者の最後がどんなものであったかを見るがいい。》(蜜蜂16:36)
聖典は、地上を旅して、アッラーの教えを嘘だとして者たちに対する懲罰の様、悲惨な最期に刮目せよと教える[iii]。しかし、筆者がこの場所で目にし、感じたものは、人間にはどうにも防ぎようのない天罰の姿というよりむしろ、たとえそれを受けていたのだとしても、そのことをも受け入れ、あるいは包み込んで、なお人々の優しさの中に、人間の欲望が食い散らかした山をも癒すような優しさ、つまりアッラーの絶対的な慈悲[iv]の中に生き続けている姿だったのである。
したがって、何よりこの石見銀山を抱く一帯の魅力は、人。筆者が昨年11月の旅行で実感したところによれば、少なくとも出雲から大田市温泉津の一体は、人のやさしさに溢れていたように思う。かつて石見銀山に「自然と人間の調和」が見られたということではなく、今なお、自然をも包み込んでしまうような人のやさしさに溢れているということだ。それこそ、自然と人の共生が持続する前提となりうるものだ。
6.人生のオアシス
温泉津はもちろん、出雲大社なども含め、この一帯は、グローバル化に、SNSにくたくたに疲れ果てた心を癒してくれる場所。出雲大社で手を合わせ、石見銀山で間歩を歩き、人間の欲望の凄まじさに向き合い、当時の鉱山労働者たちに想いを致し、沖泊(おきどまり)の港に佇んで、薬師湯のお湯につかり、ひそんでゆるりと話を聴いてもらえれば、間違いなく心は癒される。
クルアーンによれば、「地上を旅」する目的の一つに、アッラーの恩恵(この世の創造者の恩恵、現世的な利益)の探求がある(「衣を纏う者章」73:20)[v]。また、預言者ムハンマドの出身部族であるクライシュ族が、当時行っていたイエメン方面への冬の旅、シリア方面への夏の旅も、商売のための旅であり、この「アッラーの恩恵を求める旅」に入れられるものであろう。
現代社会に住むわれわれにとって、旅、あるいは人の移動は、直接間接に私たちの暮し、あるいは食い扶持、あるいは経済活動に密接に結びついている。新型コロナウイルスの危機に照らして言えば、現代人は、業種、職種は様々あれど、つまるところ移動が生業だったということさえできそうだ。つまり、いまや、一人ひとりがノマド、あるいはキャラバンとして人生という道を歩いているといっても過言ではないのかもしれない。そうした状況に鑑みたとき、この一帯は、もっとも20世紀の終わりから見たときに21世紀に必要とされるというのではなく、21世紀になって、グローバル大で世界がつながる今を生きる人々にとって、格別の居心地の良さを実感させてくれる観光スポットと言えるはずだ。
新型コロナウイルスの感染拡大とそれに伴う騒ぎが収まったら、必ずもう一度訪ねてみたい。
(2020年3月14日)
[i] 「スマートフォンに隠された真実~消費者としてできること~:(C)iStock コンゴの鉱山で働かされる子どもたち(C)Amnesty International and afrewatch
携帯電話やノートパソコン、デジタルカメラに欠かせないレアメタルの一つ、コバルト。その産出量で世界の50%を占めるコンゴ民主共和国では、労働者や子どもたちが過酷な環境で採掘をしています。採掘中に命を落とす人が多くいます。
コンゴ産コバルトの20%は、同国南部の鉱山で手掘りで採掘されており、そのほとんどは無認可の「違法」な鉱山です。落盤や窒息による死亡事故が頻発するような採掘現場で、コバルトの粉塵による呼吸器疾患を抱えながら、11~15万人の採掘労働者が働いています。その中には子どもたちもいます。
そうしたコバルトは、まず、中国の鉱業大手企業の子会社に買われ、中国と韓国にあるバッテリー部品メーカーに供給されます。その部品がバッテリーメーカーに卸され、完成したバッテリーは電子機器や自動車の世界的なメーカーに提供されています。
私たちにも身近な企業であるアップルやマイクロソフト、サムソン、ソニーなどの製品で、そうしたコバルトが使われている可能性があることが、アムネスティの報告書で明らかになっています。
私たちが、日々何気なく使っているモノが、人びとの命を削り、子どもたちを危険にさらしているとしたら…。消費者の一人として、私たちに何ができるかを一緒に考えませんか。」
(https://www.amnesty.or.jp/campaign/archive/drc/)
[ii] ウィキペディアによる、登録までの経緯は次の通り。「日本政府は、「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」として[33]、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載し、2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出した[32]。 2007年5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した[34]。それを受け、日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断したが、ユネスコの日本政府代表部は、委員会構成国の大使や専門家に、勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した[35]。 結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺産としてはアジア初の登録となる[1]。
[iii] クルアーンの中の「旅」
l 《40-82.かれらは地上を旅して、観察しなかったのか。かれら以前の者の結末がどうであったかを。かれら(滅ぼされた民)は、これら(マッカの多神教徒)よりも多数で、力も優れ、地上の遺跡も多い。それでも、かれらの稼いだことは、何の役にも立たなかった》(ガーフィル章40:82)
l 《信仰する者よ、あなたがたの1人に、臨終が近付いた時は、あなたがたの間で証言を取れ。遺言書の作成の時は、公正な2人の証人をあなたがたの中から立てなさい。また、もしあなたがたが地上を旅していて、死の苦悩があなたがたに降りかかったならば、あなたがた以外(の民)から2人を、礼拝の後、引き止めて(依頼しなさい)。もしかれらを疑うならば、アッラーにかけて誓わせなさい。「わたしたちは、仮令近親のためでも、どんな値段でも(証言を)売らず、またアッラーの証拠を隠しません。そのようなことをすれば、わたしたちは本当に犯罪者です。」》(食卓章 82:120)
l 《かれら(マッカの多神教徒)は、地上を旅してかれら以前の者の最後が如何であったかを、観察しないのか。かれら(昔の人)は、かれらよりも力において優れ、地を掘り起こし(て耕作し)、またかれらよりも栄えていた。そして使徒たちは明証を持ってかれらのところに来た。アッラーがかれらを損ったのではない。かれらが自ら自分を損ったのである》。(ビザンチン章30-9 )
l 《かれらは地上を旅して、かれら以前の者たちの末路がどうなったかを観察しなかったのか。かれら(昔の者)は、かれらよりも力が優れていた。天にあり地にある何ものも、アッラーを挫くことは出来ないのである。本当にかれは全知にして全能であられる。(創造者章35-44)
l 《言ってやるがいい。「地上を旅して観察せよ。かれが如何に、最初の創造をなされたかを。やがてアッラーは、最後の(甦りの)創造をなされる。本当にアッラーは凡てのことに全能であられる。」》第29章蜘蛛章29-20.)
l 《われはあなた以前にも、町に住む者の中から(特に選んで)、われが啓示を授けた人間以外は、(預言者として)遣わさなかった。かれら(マッカの人びと)は、地上を旅して、以前の者たちの最後が、どんな(悲惨な)ものであったかを観察しているではないか。本当に主を畏れる者に対する、来世の住まいこそ最上である。あなたがたは悟らないのか。(ユースフ章12-109.)
l 《かれらは地上を旅して、かれら以前の者の最後がどうであったかを観察しないのか。かれらは、これら(マッカの多神教徒)よりも有力で、地上に残す遺跡においても優れていた。しかしアッラーは、かれらを罪のために捕えられた。その時アッラーから、かれらを守れる者は一人もなかった》。(ガーフィル章40-21)
l 《本当にわれは、各々の民に一人の使徒を遣わして「アッラーに仕え、邪神を避けなさい。」と(命じた)。それでかれらの中には、アッラーの導かれた者もあり、また、迷誤が避けられない者もあった。それで地上を旅して、(真理を)拒否した者の最後がどんなものであったかを見るがいい》(蜜蜂章16-36)
l 《それからムーサーが年期を満了し、家族と一緒に旅している時トール山の傍に、一点の火を認めた。かれは家族に言った。「あなたがたは待っていなさい。わたしは火を認めた。あそこからあなたがたに消息を持って来よう。または火把を持ち返って、あなたがたを暖めよう。」》(物語章28-29)
l 《言ってやるがいい。(ムハンマドよ。)「地上を旅して、真理を拒否した者の最後が、どうであったかを見なさい。」》(家畜章6-11)
l 《あなたがた以前にも多くの摂理の例があった、あなたがたは地上を旅して、真理を嘘という者の最後がどうであったかを見なさい》。(イムラーン家章3-137)
l 《言ってやるがいい。「地上を旅して、これら罪深い者の最後がどうであったかを見届けよ。」》(蟻章27-69)
[v] 全文は以下の通り。
《主は、あなたが夜間の殆ど3分の2、また(ある時は)2分の1、または3分の1を、(礼拝に)立つことを知っておられる。またあなたと一諸にいる一団の者も同様である。アッラーは、夜と昼を妥当に計られる。かれはあなたがたがそれを計れないことを知り、あなたがたを慈しまれる。だからあなたがたは、クルアーンを無理にならない程度に読め。かれは、あなたがたの中病める者のあることを知っておられる。また或る者はアッラーの恩恵を求めて、地上を旅し、或る者はアッラーの道のために戦っている(ことを)。だからそれを無理にならない程度に読め。礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、アッラーに立派な貸付け(信仰のための散財)をしなさい。あなたがたが、自分の魂のために予め行う、どんな善いことも、アッラーの御許でそれを見い出そう。その(善行の)報奨は、最善にして最大である。あなたがたはアッラーの御赦しを請い求めるがいい。本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる》(衣を纏う者章73:20)。なお、「衣を纏う者章」自体は、ごく初期のマッカ啓示だが、本節については、マディーナ啓示とされる。
コメント