群れから離れて世界を観よ:ソーシャルディスタンスについて

現代社会論
群れてきたけれど。。

■ソーシャルディスタンスとは

コロナの感染拡大が止まらない。感染拡大の報道も止まらない。人々の不安も止まらない。1都3県に続いて明日は、関西3府県と東海2県、そして福岡・栃木にも緊急事態宣言が発出されてようとしている。一人ひとりの行動に変容が強く求められている中、ソーシャルディスタンスについて考えてみたい。

ソーシャルディスタンスという言葉については、フィジカルディスタンスというべきではないのかとか、公衆衛生学では感染予防の手段として「ソーシャルディスタンシング」という言い方がされていたとか、社会学でソーシャルディスタンスというと心理的な距離を取るという意味になってしまうなど、用語法自体の問題が指摘されるが、ここでは、多くの人々が集まるような場所では隣りに人と物理的に1メートルないし2メートルの距離を取ることとして、話を進めたい。

感染拡大を予防するために、この距離の確保は不可欠であるが、今後もまた新たなパンデミックに晒されることを思うと、距離の確保を前提とした社会のありようの提示は今や不可避な状況である。

 

■群れて暮らす

隣の人と距離を取りなさいというのは、つまり、群れて暮らすのはやめなさいという命令に等しい。たとえば、コンサート、たとえばスポーツ観戦、たとえば、ライブ。群れるために、あるいは群れることが前提になっている活動は多い。コロナ禍の中、コロナ以前の巨大コンサートに波打つ人々の映像を見ると、よくこれで誰も病気にならないものだと変な感心をしてしまう。

たとえば、初詣や、初日の出。これらにおいても、人々は群れている。さらに、モスクでの集団礼拝、キリスト教会でのミサ。ラマダーン明けの集団礼拝など、人々はひしめき合っているし、人気のイマーム(導師)の説教があるとなれば、どこの街であろうが通常の金曜礼拝もあふれるばかりの人だかりとなる。

となれば、たとえば国家。〇〇人という形で「群れ」として人々が束ねられる。

 

■ 群れるのが好き

ソーシャルディスタンスといったときに心理的・社会的な隔たりを感じさせるのが問題だという指摘がある。しかしながら、コンサート会場で、スタジアムで、ライブハウスで、神社仏閣の御参りで、観光地で、教会で、モスクで、聖地で、国家で、群れていられれば、ひしめき合っていられれば、心理的にも社会的にも隔てられていないし、安心もできると刷り込み、刷り込まれてしまっているのも考えものだ。

たしかに、同居家族はどうしても濃厚接触になるし、濃厚接触がなければ、子孫に恵まれることも難しい。しかし、だからと言って、ひな鳥のごとく巣の中で四六時中ひしめき合っているという意味で濃厚接触者同士であり続ける必要はない。

しかし、人々は群れるのが好きだ。小学校の国語の教材に「スイミー」というお話がある。小さい魚たちが大きな魚の形の群れをなして、大きな魚を追い払うというお話だ。知恵と団結と協力を称賛する内容かと思う。「スイミー」がもしも狂っていたら、あるいは、何かに操作されていたとしたら、それでも、その群れは、スイミーについていくはずだ。動物行動学では、よく取り上げられる話である。

動物行動学によれば、イワシやハヤなどのように、群れていないといられない魚と、エンゼルフィッシュのように、むしろ自分の縄張りに別の魚が入ってくると攻撃を仕掛ける魚がいるという。集団主義的傾向を持つ人々がいる一方で個人主義的な人々もいるということを示唆している見ることができる。

恐いなと思うのは、個人主義的な傾向のある人々が、狂ったリーダーの下で群れをなして動き出したとき。自分たちが法であり秩序であるため、手が付けられない。また、集団主義的な傾向のある人々、あるいは個人主義が十分に育っていない人々の間では、とにかく互いに身を寄せ合おうとするだけなので、息苦しさが増すばかり。自分の方が苦しいのにと他人をせめてもどこにも進めない。

 

 ■それにしても群れてきた

 モスクで人が祈るようになって1400年。教会については2000年。コロッセウムもだいたい同時期から。農耕は、1万年。そんな大げさなと思われるかもしれないけれど、コロナは、1万年の「群れて生きる」生活・社会様式の抜本的な見直しを迫っているともいえる。

 市場に群れることで回る経済、工場に群れ、オフィスに群れることで支払ってもらえる仕事、議場に群れて何も決められない政治、大きな会場に群れるエンターテインメント、聖地に群がる信仰、群れの規模や経済力で決まる正義、個より群れを優先し死ぬことさえ喜ぶ死生観。。。

 これらを変えるのは、とてつもないことのように思えるかもしれないけれど、すでに変化は始まっている。アハ体験が教えるように、人間の脳は微妙な変化の連続を捉えるのはあまり得意ではない。だから、社会的なカタストロフや、パラダイムチェンジに見舞われるのだ。ということは、群れの中にいて、あるいはネットの檻の中にいて、周りを観ようとしなければ、やがて大変革・大混乱に飲み込まれることになる。

 

■求められるのは「群れから離れて世界を見ること」

個人的には、コロナについて世界中が日々刻々と情報を共有しているのは、明るい要素だと思える。情報の真偽や、取捨選択の問題はあるにしても、新しいウィルスの感染拡大・収束状況や全世界がどのように戦っているのかを知ることができ、できるだけ犠牲者をださないため、いや少なくとも自分が犠牲者にならないためにはどうしたらよいのかを考えることができるからだ。

過去のウイルスとの戦いを見てもわかるようにコロナウイルスの収束までにはまだまだ時間がかかる。さらに3・4年かかるのかもしれないし、新たなウイルス感染に晒されてしまわないとも限らない。ワクチン開発を含め、スーパーコンピュータを擁するAIのおかげもあってもろもろの時間が短縮されていることも事実ではあろうが、それでも、時間は必要なのだと思う。性急に対策の成果を求めることは避けたいし、むしろ、刻々と進行している世界の変化に対する感性を群れから離れて磨きたい。

 

■心理的社会的距離としてのソーシャルディスタンス

かつてバングラデシュの国民的詩人ノズルル・イスラムは「頭を上げるのだ」と自らを鼓舞した。英国の植民地支配に対してそして人々に寄り添ってくれない宗教(的権威)に対して自らをそれらから決別させ「個」として「永遠の反逆者」であると宣言した。

ノズルルが亡くなってからそろそろ50年になるが、この頃は、持ち上げたのではなく、持ち上げられた頭が、さらにハッキングされているかもしれない「個」のありようが気になる。コロナは肉眼では目に見えないだけにハッキングされた頭は、群れに引き戻されて、コロナの餌食になってしまわないとも限らない。

案外、ソーシャルディスタンスという言葉が、社会的隔離のニュアンスを含みつつも用いられ続けているのは、群れることの閉塞感から離れ、パラダイムチェンジに備えようとする人々の無意識に支持されてのことなのかもしれない。

 

参考URL:

「「ソーシャルディスタンス」という“言葉の使い方”は大丈夫? 大学生が見つけた「人文学の抗議」に広がる共感」

 

 

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