視界は澄み切っているか?:「空気」を超えていけ!

アラビア語論・言語論
空の青さの向こう側

 

『旧約聖書』「伝道の書」は言う。「空の空、すべては空」と。

 

何をやっても空しいのだ。

 

地上の多くの知恵と知識を得て、心を尽くして知恵を知り、

狂気と愚痴を知ろうとした。

しかしそれも風を捕えるようなものと悟ったとも言う。

 

「空気」に振り回され、「空気が読めない」と批判を繰り返す社会があるけれど、

その「空気」を作り出すのは人間たちだ。  

 

互いに妬みあい、憎しみあうドロドロした気持ちが、「空気」を生み出し、勢いづける。

 

 

 

それにSNSが絡まると「空気」は巨大な雲に発達し、停滞し、とめどない石礫さえ降る。

 

 

 

★★

 

 

 

かつて、大学の講義で空気を読まずに聖典を読めと言ったことがあった。

「空気」から自由なのが聖典であるし、

澄み渡った「空」に直接つながっているのが聖典のつもりだった。

シンプルにそういうものだと信じていた。

 

 

 

たしかにそれは、「空気」が吹き込まれている人の言葉ではない。

 

 

 

しかし、読むのは「空気」の空しさが分からない人間だった。

 

「ワイルン」を願望や祈りだと読むのは人間の側だ。

 

 

 

だから、「空気」に流されることのなく世界の変化と創造を見据え、

「聖典」を手掛かりにそして、その檻の中にとらわれることなく、森羅万象を読む。

 

 

 

つまり、読むべき本は2つ。

啓示によって下された創造主の言葉によるアーヤ(徴し)と、

この瞬間も創造主の存在を示してくれる、五感に感じることのできるアーヤ。

 

 

 

ただ、心にとめておいてほしい。青空からは雨が降らないことを。

 

雨が降らなければ、命は生まれないし、保たれない。

 

雲や風に一喜一憂するのに理由もあるのだ。

 

だからなおさら、その向こう側の存在を忘れない。

 

 

 

それを宗教者は「聖なるもの」と言い、

 

それを恐れることが「知恵」のもとであり、それを知ることが「悟り」であると。

 

 

 

★★★

 

 

 

また「伝道の書」は言う。「人の語るすべての事を心にとめてはならない」と(7:21)。

 

 

 

それは、「他人からの呪いを聞かないため」。

 

 

 

自分の胸に手を当ててみれば、心が、「しばしば他人をのろった」のを知っている。

 

自分以外の人がそうでない保証はどこにもない。

 

 

 

だから、他人の言葉をすべて心にとめれば、その呪いが刺し込まれることになる。

 

 

 

しかもそれは空気の産物であるだけにたちが悪い。

 

空気はとめどなく膨張する。心は間違いなく破裂する。

 

 

 

結局、誰かを呪えば、それが、自分に返ってくるのだ。

 

 

こう考えていくと、人の言葉のいちいちを心にとめれば、

自分の呪いに呪われることが分かる。

 

 

何かと空気にざわつき、振り回されがちな心への戒めがそこにはある。

 

 

 

★★★★

 

 

 

とはいえ、「空しさ」は止まらない。

どんなによく生きたとしても、どんなにひどく生きたとしても、

死んでしまえば同じだからだ。

 

この事態をいかに乗り切るのか。

 

 

イスラームは、最後の審判を明確に置くことによって、これを乗り越えようとした。

 

 

 

ムハンマドの言行によれば、

 

中傷も、罵りも、妬みも何も、恨みのもとになりそうなものは端から禁止されている。

 

 

 

それでも、それらから離れられないのが人間である。

 

 

そのことも熟知の上で、あるいはムハンマド自身がそれを認めた上で、

 

誤りや過不足は、すべて最後の審判に預ける。

 

 

 

呪うことを止めることができないなら、どこかでそれをフォローする必要が出てくる。

 

最後の審判に、その役割が委ねられた格好だ。

 

 

 

だから、それを嘘だということは許されない。

 

最後の砦の破壊だからだ。

 

 

 

自分が報復しなくても、アッラーが必ず報復してくれる。

 

中傷者は、地獄に落とされるのだから、自分がそのことに気をもむ必要はない。

 

 

 

それにもかかわらず、怒りも争いも一向に収まらない。

「あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう」(箴言9:8)

 

あざける者を責めても、彼からは憎しみしか出てこない。

そして、「憎しみは、争いを起す」(箴言10:12)

 

「ワイルン」(聖典クルアーン「中傷者章」ほか)が

憎しみの、そして争いの火種になっていなければよいのだが。。

 

 

 

★★★★★

 

 

 

詩人がやってきた。天国も地獄もない世界を想像してみてって言う。

 

あるのは、みんなの上の同じ空だけ。みんなが「今」を生きている。

 

 

 

国家も宗教もない世界を想像してみろとも言う。

 

そのために死ぬことも戦うことも殺しあうこともない。みんなが平和に暮らしている。

 

 

 

詩人は続けた。

夢みたいなことだと思うかもしれないけど、おれ一人の考えじゃないんだ。

 

君もいつか仲間に加わってよ。そうすれば世界は一つになる。

 

 

 

そこには、おれのものって考えもないんだって。

だから、欲張りもいないし、飢える人もいない。

 

 

しかも、みんなが同じ言葉でわかりあっている。

 

 

 

夢みたいなことだと思うかもしれないけど、おれ一人の考えじゃないんだ。

 

 

君もいつか仲間に加わってよ。そうすれば世界は一つになるって、詩人は繰り返した。

 

 

 

★★★★★★

 

 

 

天国、地獄という檻、国家や宗教という檻の中で、

 

ひたすらに自分の持ち金を数えて、自分だけは永遠に生き続けられるなんて、妄想だ。

 

 

 

「利息と高利によってその富を増す者は、

貧しい者を恵む者のために、それを蓄える」(箴言 28:8)だけでなく、

たくさん稼いで実際に困っている人たちに恵んで、みんなで分かち合う。

 

「中傷者章」が想定していない事態。

 

 

あの世にまでもっていくわけではない。あの世の分をこの世で回す。

 

 

 

こちらの方がよほど長持ちする。

究極の外部(幽玄界)を得て人も富も生かされるというものだ。

 

 

 

欲を捨て、執着を捨てて、自分に与えられた自分の分を生きられることを楽しみとする。

 

詩人は、コヘレトからも菩提樹の悟りの主からもヒントを得たようだ。

 

 

 

★★★★★★★

 

 

 

経済学者[i]がやって来た。マルクスを読み直せと。

 

人間たちの活動の痕跡が地球の表面上を覆いつくした時代

「人新生(ひとしんせい:anthropocene)」

 

 

生産手段だけでなく地球を「コモンズ」として労働者が管理せよと。

 

 

宗教がかつてのアヘンならSDGsが「人新生」のアヘン

 

地球と人々の暮らしを「脱成長のコミュニズム」で救おうと。

 

 

 

詩人と経済学者の間に、『旧約聖書』が見え隠れする。

 

 

タルムード(モーセ5書をベースにしたユダヤ人の生活規範)を超え、

 

シャリーア(クルアーンをベースにしたムスリムの社会規範)も超え、

その先の展開を考えよう。

 

 

物質主義は、地球が壊れるというけれど、人間が壊れ始めている。

 

 

優れていると自任する一握りが支配する形ではなく、

一人ひとりがこの地上で自分の人生を生きていける道を探そう。

 

 

 

★★★★★★★★

 

 

 

 

 

いずれにしても、人の言うことをいちいち気にする必要はない。

 

空気に押しつぶされそうになったのなら、せめて空の青さを見つけよう。

 

マインドフルネスの手法の一つでもある。

 

その青さは、創造主のキャンバスの色。

 

きっと自分の色がよく映える。

 

 


[i] 斎藤幸平『人新生の「資本論」』集英社新書1035A2020922日。

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