■アラビア語のグーグル翻訳を使ってみる
グーグル翻訳の進歩が目覚ましい。アラビヤ語で相当な文章を作成することも、読むこともできるようになっている。
たとえば「メールをいただき、ありがとうございました。久しぶりにご連絡をいただきとてもうれしいです」という文をグーグル翻訳にかけてみると、
شكرا لك على بريدك الإلكترونى. يسعدني جدًا أن أسمع منك بعد وقت طويل.
という訳文が示され、しかも、読んでもくれる。アラビヤ語の単語は、ちょっと乱暴に言えば、子音を表す文字の羅列であり、母音はほとんど表記されていない。つまり、文字の並びが分かっていてもなかなか正確には読めない。
それをほぼ正確に読み上げてくれもするのだから、これほど有り難いことはない。(それはちょうど漢字や漢字熟語を読み上げてもらえると日本人でさえ楽なのと似ているかもしれない。)
■アラビア語教育が進化する好機
上のアラビヤ語を正確に読めるようになるまで、私の大学での教育経験によれば、週に2回から4回の授業を擁しても2学期程度、いや、3学期は必要になる。ただし、そうやって受講を続けられたのは、早い段階で文字をマスターできた学生たちに限られていたように思う。本格的に学び始める前に諦めてしまう者が多い言語でもあった。
しかし、最初の2学期なり3学期なりをクリアすると、シリアのアレッポや、ヨルダンのアンマーンでの現地研修も交えてのコースのを歩むことになり、そこでアラビヤ語を学んだ卒業生の中には、培ったアラビヤ語力を実際に生かして外務省、報道機関、アラブ在外公館の文化関係のセクションに働く者もいるし、アラビヤ語をメインで使って研究や教育に携わる者もいる。
つまり、そのコースは熱心な学習者たちに支えられ、外国語大学のアラビヤ語学科ではなかったにもかかわらず、相応の成果に恵まれた。アルハムドゥリッラー。しかし、グーグル翻訳をはじめとする自動翻訳がかなりの進化を遂げている今、アラビヤ語の学習方法自体もまた大きな進化を果たすチャンスが巡ってきているように思う。
すでに大学教育の場を離れているからというわけではないけれど、アラビヤ語は大学で数年かけて集中的に学ばないとマスターできない言語ということではなくなってきているということができそうだ。
■アラブを旅したいからが習得の理由になりえなくなってしまった
コロナの世界的感染爆発で旅行に行くことが難しくなってしまった今、アラブ諸国を旅したいからという理由はアラビヤ語を始める動機になりにくい。私がかつて初代の講師を務めたNHK教育テレビアラビヤ語講座も当初は圧倒的に正則アラビヤ語(フスハー)メインでスタートした。しかし、現在はモロッコなり、エジプトなりへ実際に旅行に出かけるという設定で、モロッコなりエジプトなりで使われているアンミーヤ(お国言葉に当たるもの)メインにシフトしている。
私がフスハーに拘るのは、アンミーヤが日常的に使われていたのだとしても、放送・報道・あるいはモスクの説教等で用いられているのはフスハーである。アニメーションの吹き替えもすべてフスハーである。何より、書き言葉としては、フスハーが用いられる。チャットではアンミーヤが行きかっていたりもするが、聖典クルアーン、アラブの文学作品、医学部も含めた大学の教科書、アラブ・イスラーム文明の隆盛を物語る万巻の書物、研究書などは、すべて正則アラビヤ語で書かれている。
フスハーとアンミーヤの関係でいえば、アンミーヤの屋台骨がフスハーであることからすれば、まずはフスハーを身に付け、あとは現地でカスタマイズする。フスハーでしゃべったとしても十分通じるので、旅行などでも言葉が通じたとき喜びは十分に受け取ることができるはずである。
とはいえ、コロナ禍の中、旅行云々はとりあえず封印せざるを得ない。
■「よかった」をグーグルで訳してみる
であるとするならば、アラビヤ語学習の魅力は何であろうか。
こんな世界の見え方、見方があるんだ。こんな切り取り方があるんだ。こんな言い方があるんだ、こんな表現をするんだ、こんな発想方法があるんだといった、人生を豊かにする様々な気づきを与えてくれるということかなと思っている。
たとえば、日本語で「よかった」という言葉がある。今日は晴れてよかったとか、風邪が治ってよかったなどで用いる「よかった」である。
グーグル翻訳で「よかった」を訳してみると、
كان جيدا
とでてくる。右から「カーナ・ジャイイダン」と読む。カーナは、動詞で「~だった」と示し、ジャイイダンは、「よい」を表す言葉で、二つ合わせて、まさによかったとなる。
ちなみに「よかったです」を訳してみると、「私は幸せです」と訳される。
また「今日は晴れてよかった」は、「今日は太陽が輝いているので私は幸せです」と訳されてくる。
■「すべての称讃はアッラーにある」
グーグル翻訳には申し訳ないけれど、「よかった」のアラビヤ語訳として最もふさわしいと私が推奨するのは、「アルハムドゥリッラー」である。
「アッラーに称讃あれ」と訳すことのできる言葉である。アラブ人・あるいはイスラーム教徒の会話の中で、日本語で「よかった」を使うタイミングで頻繁に用いられるフレーズである。
「アルハムドゥ」は、称讃(それもはじめの「アル」は定冠詞であるため「まさにすべての」というニュアンスが加えられている称讃である。「リッラー」の方は、所有や目的を示す前置詞「リ」に「アッラー」が付いたもの。
「すべての称讃はアッラーにある。すべての称賛はアッラーのもの」といった意味である。
つまり、アラビヤ語の世界では、「よかった」というのに、アッラーに対する称賛を添えるのである。 「やっぱりアッラーってすごいよね」「こんな(よい)ことが起きるなんて、称えるべきはアッラーだよね」ということをそのたび繰り返していることになる。
「アルハムドゥリッラー」の効用は、別稿に譲るとして、「アルハムドゥリッラー」を旅行でもメールでも、たとえ、他の部分は別の言語で語り、あるいは書いたとしても、この一言が使われていたとするならば、受け取る側の親近感は、一気に増す。
この場合、アッラーを、今この時も時々刻々と創造を行なう創造主としての神ということができるが、「よかった」という状況で、そこまでが織り込まれて、だからと言って決して大事でもなく会話が、そして世の中が動いているアラビヤ語の世界。
もちろん、アッラーを「イスラーム教の神。イスラーム教徒の信仰の対象で、唯一神」と規定してしまったのでは、そんな言葉使いたくないと思われるかもしれないが、広く、大きい意味での「神」と読むことも可能である。
「アルハムドゥリッラー」は、アッラーがそこかしこに顔を出すアラビヤ語の世界を体験し、身近に感じるのに格好のフレーズだが、現状のグーグル翻訳を頼っているかぎりは、立ち入ることができないことは確かだ。
■言語学習の新たな地平へ
いずれにしても、文化、社会、宗教、慣習、伝統といったもの、そしてそれらを生み出すもととしての言語という観点から、言語を学ぶ時間をAIがもたらしてくれているのではなかろうか。
ささやかではあるけれど、そうしたモチーフのアラビヤ語の連続講座をYouTubeで配信することはできないかと考えたりもしている。
とはいえ、文字だけは、知らなければ、グーグル翻訳へのアクセスも難しい。まずは、文字の習得を。
そうすれば、コロナ禍の中、あるいは、閉塞的な日常があるならその中で、未知の言語を学んで新しい発想法を身に付けることは、事態を乗り越えるきっかけにもなるはずだ。
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