正論は疎ましがられる:「この地上に正しい人はひとりもいない」(旧約聖書 伝道の書 7:20)

アラビア語論・言語論

■ 「間違えない人はいない!?」

たまたま外出中に目にしたE-テレから『旧約聖書コヘレト書(伝道の書)』の一節が流れてきた。

「正しい行いの人であっても、まったく罪を犯さない人などいない」という主旨の節であった。その通りだと思い、帰宅後、『旧約聖書』を開いてみた。

「コヘレト書」が「伝道の書」であることからであったので、少し手間取ったものの、無事に該当の節と思われる箇所にたどり着いた。

「この地上に、正しい人はひとりもいない。善を行ない、罪に陥ることのない人は。」(伝道 7:20)

新日本聖書刊行会 翻訳. 旧約聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター) (Kindle の位置No.78818-78822). INOCHINOKOTOBASHA. Kindle 版.

  間違えない人はいないんだよと言ってもらっているようで、こういう言葉を聞くと、間違いだらけの自分はとても救われる。

「善を行なえば、罪にも陥る」とも読める。「善が同時に罪深い行いだ」という意味ではなく、「罪に陥ることなく、善のみを行なう正しい人は、この地上にはいない」ということなのであろう。

 

■ 「正論」が疎ましがられるのは?

「正論」は、しばしば疎ましがられる。それは、正論それ自体というより、正論の主張者に、その考えが間違っているかもしれないという、慎重さ、謙虚さ、あるいは、相手方に対する思いやりといったものが欠けているからなのかもしれない。「謙遜は栄誉に先立つ」と「箴言」18:14は教えている。自戒を込めて。。

新日本聖書刊行会 翻訳. 旧約聖書 新改訳2017 (新改訳聖書センター) (Kindle の位置No.76447-76457). INOCHINOKOTOBASHA. Kindle 版.

 

■ アラビヤ語訳から「正しい人」を見ておく

 ちなみに手元にあるアラビヤ語訳”التفسير التطبيقي للكتاب المقدس”では、

 ليس من صدِّيقٍ على وجه الأرض يصنع خيرا ولا يُخطِيءُ

 となっていて、直訳すると「大地の上には、間違いを犯さず善い行いをなす正しき者はいない」となる。

 「正しき者」に当たるアラビヤ語には、صدِّيقٍ の語が用いられている。「真実を語る、正直である、誠実である」を意味する動詞に由来している。ヘブライ語においてもこの部分には、 צַדִּ יק つまり、 tzidiik の語が見いだされる。

 これは、アラビヤ語の「シッディーク」である。このヘブライ語をグーグル翻訳にかけると英語、日本語では適切な翻訳を行なわれず、アラビヤ語のみ「サーリフ صالح 」と訳されてくる。「良さ、正しさ、健全さ、高潔さ」などを含意する「正しい(人)」である。ヘブライ語からの英訳でも、逐語訳は righteous one が、章句全体の訳の中では just man が用いられていて、日本語で読んだときに感じるニュアンスと重なる部分も多くなるのかもしれない。

 

■  正しい人 愚かな人

最後に、もう一つ注意点がある。善い行いをするものの間違いを犯してしまうのは、「正しい人」だという点である。厳密には、「間違えない人はいないのだよ」ではなく、「正しい人でも間違えない人はいないのだよ」である。「伝道の書」においても、あるいは、その前の「箴言」においても、「正しい人」「知恵ある者」「知者」などの対極に位置する「愚かな者」については、厳しく辛く絶望的な宣告が下されているのだ。

 

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