《かれらに対して、あなたのできる限りの(武)力と多くの繋いだ馬を備えなさい。それによってアッラーの敵、あなたがたの敵に恐怖を与えなさい。…》(戦利品章60)。不信心者に対して、恐怖を与えるように力と多くの繋いだ馬を備えよという戦争抑止のための聖句である。現在の注釈学者たちは、この聖句を解して、最新の武器を保有せよというメッセージと読む。つまり、その当時は多くのつないだ馬であったが、現在においては、馬に代わるものを備えるべきものと解するのだ。目的は、あくまでも敵に戦意を失わせるほどの力を持つこと。そのことに鑑みれば、確かに、この時代に備えるべきは馬ではなく、最新鋭の武器だということになる。
しかしである。最新鋭の武器というのは、そう簡単に手に入るわけではない。最新鋭の武器を世界の先頭を切って開発している国ならばともかくも、たいていの国は、そこの国から型落ちの武器を高く買わされる。喜んで買うから軍需産業も栄えるというものだ。
だから、備えるべきは、武器ではないだろうということになる。武力という力ではなく、人の力、文化や文明の力。そのためには、何より教育だという解釈も同じ聖句から引き出される。
牛にも同じような例を見出すことができる。モーゼがシナイ山でアッラーから40日40夜にわたって様々な法規を授かっている間に、残された民が行ったのが、黄金の仔牛の像を作って、それを崇め奉り、不義を働くこと。(雌牛章51)。ここでも、受け取るべきメッセージは、黄金の仔牛の像さえ崇め奉らなければ何を崇拝してもよいという話ではない。何に限らずアッラー以外の何かを神とするようなまねは厳に慎まなければならない。
これに対して、豚はどうだろう。豚肉が汚いとクルアーンが教えるのを受けて、食べ物でもない豚革や豚毛まで汚いとして避けるというのはどうもおかしい。わざわざ食べ物としての豚肉と限定しているのだし、大体大前提は食べたいものは何でも食べなさいというのだから、ここは、限定をしっかり守るべきであろう。あくまでもハラールでタイイブなものを食べなさいというのがアッラーの教えでもある。酩酊物が酒であるという言い方を借りれば、ハラールでタイイブなものが食べ物だということになる。
ハラールでタイイブを最も象徴的に表すのが屠畜の方法である。クルアーンでは、《あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、アッラー以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。また石壇に犠牲とされたもの、籤で分配されたものである。これらは忌まわしいものである》(家畜章5)要するに、動物が恐怖や苦痛を感じて殺されたのでは、ハラールにならないのである。つまり、命をいただく動物に対する慈しみの心である。
現在ハラールミートの生産方法が、かなり酷い。つい最近まで、頸動脈を切る旧来のやり方が、最善と私自身も考えてきたし、そういうものとして紹介もしてきた。確かに見た目は残酷ではあるが、ハラールでタイイブな肉を作るためにはそれがベストであると、自分自身がシリアで体験し、また現在ハラール屠畜として行われている方法を踏まえつつ語ってきた。しかし、この冬、育牛農家と屠畜業者を続けて訪問する中で、これはアッラーの命令を見失っていたかもしれないと気付いたのである。
確かに、ムハンマドの時代には、最善のやり方だったのかもしれないが、現在は、それより良い方法が確立している。その証拠がシミ肉の有無だ。ハラールミートとして屠畜を行った場合、どうしても10頭のうち3頭程度の枝肉にシミが現れてしまうという。このシミの原因は、体外に排出されきれずに残ってしまった血液。旧来のハラール屠畜の方法の説明では、頸動脈を切られて失血した動物が起こす筋肉の緊張と弛緩によって、体内の血液がきれいに放出されるとしていたのだが、頸動脈を切った後、即座に体を吊し上げることのできない牛の場合はどうやら事情が異なるのだ。
また、一説には、シミの原因が屠畜の際の牛のストレスであったり、あるいは、圧縮機に入る際の打撲だったりもするという。つまり、シミ肉ができてしまうというのは、決して牛に対して最高の慈しみを与えるとは言えないのだ。しかも、シミが入ってしまった肉は、日本ではミンチになるのがせいぜいで二束三文にもならないという。
ところが、業者の方のお話によれば、湾岸諸国への輸出の際には、シミ肉になっても問題はないのだそうだ。湾岸のバイヤーたちは牛肉のシミは意に介さないのだそうだ。それなら問題ないと思われるかもしれないが、実は牛への思いやりという点では、大問題だ。なぜならば、湾岸のバイヤーたち、つまり、ハラールの番人たちともいえる彼らが、牛肉のシミ、すなわち牛のストレス、つまり牛の苦痛や恐怖に無関心だということになる。
ナイフは最高に研ぎ澄まし、しかし牛に恐怖を与えぬよう、直前まで見せることなく、屠畜の際には一撃にと、スンナは教える。それがムハンマドの時代には、最善の方法であったことは想像に難くない。しかし、シミ肉の存在から明らかなように、すべての牛が確実に、一切の苦痛、ストレスなどなしに屠られているとは言えない。牛を仮死状態にし、恐怖も苦痛もストレスも格段に少ないシミ肉の出ない屠畜方法もある中で、あえてそれにこだわり続ける姿勢は、最新兵器がある中で、繋ぎ止められた馬にこだわることに似てはいないか。あるいは、金や権力、愛情や憎悪などといったさまざまな偶像に魅せられ、惹きつけられ、振り回される状況の中で、仔牛の黄金像だけ気を付けていればよいとするのに似てはいないか。
ほかにより良い方法がある中で、わざわざ善意の業者に億単位の投資をさせて、まったく採算に合わないハラール牛を生産させるハラール認証という仕組みが、私には、型落ちの武器を売りつけて、甘い汁を吸う戦争商人たちと確実に重なってしまう。参事便乗型資本主義と敬虔さ便乗型資本主義。彼らはきっと言う。「黄金の子牛の像だけは崇拝していませんよ」と。
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