1941年12月8日。大東亜戦争が始まった日。真珠湾攻撃の日。当時小学4年生の私は「戦争が始まったんだ」と思った。国にとっていいことしか言わない報道を聞いて、素朴に勝利を信じていた。
今も口ずさめるこんな歌が流行った。「太平洋の真ん中で大きな手柄を立てたのは若い9人の兵士です。新聞読んでお父様、ひざを正しておっしゃった。…」。
「日本は勝つ」と家族みんなが信じていた。
そんな中、3人の兄たちが、戦地へ赴いた。4番目の兄は志願して戦争に加わった。
自分の家はそのあたりでは大きい農家だった。兄たちと入れ替わるように、海軍の兵隊さんたちがやってきた。おじさんといった年恰好の人たち5人くらい。隊長さんがやたらに威張っていて、嫌いだった。
近くの山で松の木の根っこを掘って松根油を作っていると聞いた。この油で、戦争に勝てるわけがない。子供心にそう思った。
学校には毎日に通っていたが、作業ばかりで、怠ければ非国民。勉強した記憶はほとんどない。
近所には戦死者も出た。焼夷弾が落ちた。不発弾で亡くなった子供もいた。防空壕に入ったのは1度だったと記憶しているが、夜になると東京や横浜のある東側の空が赤く染まった。
小学校4年から高等科2年までの4年間戦争は続き、1945年8月15日に終戦を迎えた。実家のラジオでそろってその日の放送を聞いた。
幸いにも兄たちは無事に帰還した。志願した4番目の兄は、あと数日終戦が遅れていたら、特攻に命を散らすところだった。
しかし、戦争は終わっても、混乱は続いた。食料を求めて、多くの人が訪ねても来た。
そのすべての始まりが12月8日だ。悲しくなるし、厭だし、嫌いだ。
その後、新憲法(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)が制定された。
学校で教わったのは。もう戦争はしない、武器は持たないということ。
戦争のない国ができると、それは期待したのだが、大きな船なんか作ってしまって、嘘ばっかり。裏切られた気持ちでいっぱいだ。
あの憲法教育は何だったのか。つい最近まで同級生と会うと出てきていた話題だ。
満州事変の年に生まれ、支那事変の年に小学校に入学した私たち。太平洋戦争、敗戦、戦後と生きて今年90歳。日本国の戦争とともに歩んできたようなもの。
この秋、そんな私たちに、3年ぶりのクラス会の計画があったが、中止になった。気持ちはあの頃のままでも、自分たちの身体も周りもついてきてはくれない。もう同級生たちと戦争中の困難困窮を語り合うこともできない。
そして今、確かに、戦時中に比べれば夢のような生活を送らせてもらっている。しかし、その一方で政治家の発言や世の中の雰囲気に開戦前夜に似た空気を感じている。
12月8日が人々の記憶から日本史の教科書の一記載事項に変わりつつあるという危機感も手伝って、「とにかく戦争だけはしてはいけない」というの念いがここのところ年々強くなっている。
※「9人の兵士と出動しながら捕虜となった一名の兵隊さん、生き残ることができて本当によかったです。」
(2021年12月6日・8日の聴き取りをもとに作成)
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