「読め」から始まった『聖典クルアーン』。読むべきは?

アラビア語論・言語論
《読め》から始まるクルアーン《凝血章》

それは「読め」から始まった

至高なる御方は言う。《創造を行なったあなたの主の名前で読みなさい。》(凝血章1)

いちばん最初の啓示とされる聖句である。クルアーンの中でムハンマドに対する最初の命令は、「読め」だった。「読むこと」がクルアーンの最初の命令だったのだ。「何を読むか」については、啓示上明記はない。
 ムハンマドにとっては、注釈学者の解説の通り「読み」の目的物は、聖典クルアーンだったはずだ。その後このムハンマドに降った啓示は、口伝され異本を取り除いた後、3代目カリフ、ウスマーンの時代にまとめられ、現在にまで至る。アルムスハフ(書物)とも称される『聖典クルアーン』である。
 翻って、その聖句を1400年後に読むわれわれにとって、「読み」の目的語は、聖典クルアーンだけであろうか。

 

「アーヤ」という印

 アルムスハフの一つ一つの節を「アーヤ」というが、「アーヤ」には別の意味もある。その代表格が、「しるし」である。


وَكَأَيِّن مِّنْ آيَةٍ فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ  (105يويف)  


天と地の間には、(アッラーの唯一性や神慮に関し)いかにも多くの印がある


ここに言われている「印」のことである。

こうした印について人々の反応は次の通りだという。

يَمُرُّونَ عَلَيْهَا وَهُمْ عَنْهَا مُعْرِضُونَ (105يويف)
かれら(人々)はそのそばを通り過ぎるのだが、それらから(顔を)背ける。


太陽を見ても、月を見ても、星を見ても、山を見ても、海を見ても、アッラーの存在の印としては見ずに、そばを通っても通り過ぎ顔を背けてしまう。

 その次の聖句は、さらに示唆深い。


وَمَا يُؤْمِنُ أَكْثَرُهُم بِاللَّهِ إِلَّا وَهُم مُّشْرِكُونَ (106يويف) 

かれらの多くは、アッラーを多神の一つしてしか信仰しない。


創造主たるアッラーの印を天と地に読まない人々は、アッラーを信仰していたとしても、多神信者の信仰になってしまうというのだ。

 

空気しか読むものがないだけが貧困なのか


 創造主の創造は、日々続けられている、いや、瞬時に更新されている。この瞬時に更新される印を読まずに、クルアーンにしかアッラーの印を読まないのだとすれば、アッラーの印をあるムスハフの時点に固定してしまうことであり、アッラーの創造主としてのありようを無視することに他ならない。それは、アルムスハフには忠実であるかもしれないけれど、とても創造主たるアッラーの忠実な僕とは言えない。
 アルムスハフ教。アルムスハフが下された時点でアッラーの創造主としてのありようを止めてしまう教え。多神教の一つとされても仕方がない。
 
 かつて私は、大学の講義の中で、アルムスハフを読みもせず場合によっては存在さえ知らずに、空気ばかり読んでいる人々に対して、空気しか読むものがない貧困を指摘してきたが、どうやら、間違えていたようだ。
 アルムスハフだけを読んで満足することも大きな貧困なのである。読むべきは、創造主たるアッラーの存在の印すべてである。

 

読むべきは?

 ムスハフとしてくだされたアーヤも、私たちの目の前を通り過ぎていく幾多の森羅万象も、そして人々の思いが織りなす空気も、すべて究極の一なる創造主の存在の印として読むこと。そうした時にはじめて多神教に絡めとられることのない一神教の次元に進むことができる。
 シャリーアが、イジュティハードを行なってもなお過去にとらわれてしまうのも、その究極の法源がアルムスハフとしてのクルアーンだからなのかもしれない。多神教徒も含めてすべての人々の法となるためには、単に慣習の法源的地位を引き上げるというのではなく、観察される印をアルムスハフと同等に法源に組み込む努力が必須となろう。
 そのためにも、我々にとってのキラーア(読み)の対象は、アルムスハフと天地の間の創造主の印、そしてできれば人々の空気ということになる。すべてを創造した主の名前によって読むのだから。(اقرأ بسم ربك الذي خلق) アッラーはすべてを御存知。

 

 

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