《それなのにかれらの後継者が礼拝を怠り、私欲に耽ったので、やがて破滅に当面することになるであろう。だが悔悟して信仰し、善行に勤しむ者は別である。これらの者は楽園に入り、少しも不当な扱いを受けることはないであろう》(マルヤム章59-60節、19:59-60)
『聖典クルアーン』マルヤム章59-60節である。
ここで、「私欲」と訳されている言葉は、「シャハワート」。「情念」にも近い言葉。「かれら」とは、ノアあるいはイブラーヒーム(アブラハム)、イスラーイール(ヤアクーブ)の子孫たち。
アランは、「情念」について、「ところが人間は、情念に身を任せたとたんに大馬鹿者になってしまうらしく、(中略)だれかに侮辱された人は、そのことを証拠立てようとあれこれと理屈をつけ、相手をいっそう悪者に仕立てる理由を探しては見つけ、前例を探しても見つける。そしてこんなことを言うだろう。ほら、私が怒るのはもっともなのだ、こんなに立派な理由があるのだ、だから攻撃をやめたり相手を許したりするものか、と。」(アラン『幸福論』第18話「情念」)
礼拝は、そんな怒りを鎮めてくれる効果的な方法であると同時に、もしそれを怠ると、逆に「情念の虜」になってしまう。
そして「情念の虜」から解放してくれるのが、悔悟して、信仰を見直し、善行に励むこと。そうすれば、情念から解放され、楽園に入れてもらえ、そこで決して不当に扱われることはない。
地獄に落とされる前であれば、やり直せるし、楽園にも受け入れてもらえる。つまり、現世的には地獄のような日々からも救われうる。私欲に囚われてしくじってしまった人には希望の聖句である。アルハムドゥリッラー。
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