新型コロナウイルス感染拡大下のラマダーン月のサウム(斎戒、断食)について

  في صيام شهر رمضان في اليابان تحت انتشار عدوى فيروس كورونا جديد



 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、人類社会の全体が未曽有のチャレンジを受けている。イスラームの信仰のまた例外ではない。全世界20億の信者がモスクにも、あるいはマッカ(メッカ)にも集まること自体を控えなければならないのだ。

 ラマダーン月のこの1か月間、モスクに、ムスリムたちの家庭にあるいは夜間のスークに人々が集まる。世界の各地の様々な文化的背景を持つムスリムたちがモザイクのように暮らすここ日本では、ステイホームで3密と移動を徹底的に回避することによって感染拡大と医療崩壊を食い止めようと遅ればせながら政府から非常事態宣言が発出されて、そろそろ3週間が経つ。ラマダーンの前半2週間がステイホーム週間と重なった格好だ。
 ステイホームと3密の回避は、ラマダーン月のムスリムの行動にも大きな制約を課すことになる。お祈りにモスクに出かけることも、あるいは、イフタール(断食明けの食事)に友人を招くことも招かれることも難しくなるからだ。毎年信者であるなしにかかわらず、多くの人々にイフタールを振舞ってきた東京ジャーミイも、今年のイフタールの食事会は中止にするという。

 イスラームは、人間は一人では生きられない、群れてこそ生きられることを、5行の形で示し、人々にその実践を促している。しかし、コロナ禍において人々は群れること自体を回避しなければならない。
 たとえば礼拝は、それ自体が社会の在り方のモデルだという説明を長くしてきた。信者の列は横一列、そこには貧富の差も世代の差も関係がないと。しかし、そもそも密集して密接に並ぶことができない。集団で祈ることができない。社会の連帯を体感する場所が失われてしまう。
 であるとするならばどうするのか。社会的距離を保ちながら、しかし、つながりを実現するような社会の在り方を考え出さなければならない。



 そこで、おそらく今だからこそ考えられることがある。それは、アッラーとの向き合い方だ。集団では祈れないかもしれないが、アッラーに対して祈れないわけではない。モスクへ行かなくても、自宅で十分に祈ることができるのイスラームの祈りだ。
 一人で行なう祈りでは、まさに創造主たるアッラーとじかに向き合う。心静かにアッラーと向き合う大切な時間を与えられたことになる。アッラーのラフマに想いを致す最高のチャンスなのだ。それでも夜は空けるし、止まない雨もない。コロナウイルスも、おそらくは人間が作り出した悪がまわりまわって降りかかっているものとは思うのだけれど、それでも、地球は人類は、多くの犠牲者を出しながらも、なんとか持ちこたえている。アッラーの慈悲慈愛を感じないわけにはいかない。

 ところで、今、世界中の多くの人々が、ウイルスの感染拡大の終息を祈っている。科学者も、政治家も、さまざまに見解を述べるけれど、結局は祈るしかない。特定の信仰を持たない人々であっても、あるいは、無神論者と言われる人々であっても、祈るほかない状況ではなかろうか。
 ここで思い出しておきたいのが、アッラーはラッビルアーラミーンであるということ。ラッビルムスリミーンでも、ラッビルサウディーイーンでも、ラッビルフカラーでもない。すべてを御存知で、すべてを見聞きしているのだとすれば、世界中の人々の祈りはアッラーに届いているはずだ。
 そしてすべてがその存在の創造によるものであったとするならば、ウイルス感染の終息の祈りもその創造主に向けられるのが何より効果的ということになる。
 そんな言説は、非科学的だと思われたかもしれないが、科学がこれほど発達していてもコロナ対策はすべて後手に回っていて、祈るしかない状況に置かれていることも事実である。そうした祈りをだれに受け取ってもらうのかというレベルの話である。
 国家元首、政治的なリーダー、宗教指導者に祈っても、コロナ対策にならないことは誰でも知っている。であるとするならば、森羅万象を創り出す創造主に対して祈りを向けてみる。

 アッラーというと、「イスラームの神」と理解されがちだが、すべての人々の主なのである。厳格さが際立つ神とイメージされがちだが、じつは、なによりも広く遍く慈悲慈愛に満ちた神なのだ。それは、とてつもなく大きな一なる存在であり、この世もあの世も見えるものも見えないものも有限も無限もすべてを包み込み、そこからすべてが創造される「大きな一」。この存在からだけは、誰も、何も逃げることができない。そして、祈りは必ず実現する。それがいつなのかは、神のみぞ知ることではあるけれど。。
 ラッビルアーラミーン(万有の主)としての主は、人々の特定の宗教を強制することはない。したがって、そこには、イスラーム教徒がアッラーと言っているときに、他の人々が想起しているのとは必ずしも一致しない、すべての人々を優しく包み込んでいる神の存在がある。
 そうした神の在り方がコロナウイルス禍の中においてもすべての人々の連帯のもとになるプラットフォームを提供できるのではないかと考える。それは、一神教と多神教をも包摂し、祈る人々すべてを束ねられる一神教4.0と呼びうる地平だ。
 国境で仕切ることしか対策が打てない今回のコロナに対する各国の対応は、まだまだ、一神教的な社会的な結びつきが3.0未満の展開しかできていないということの証左でもある。

 社会的な直接的な結びつきに強力な制約がかかっている今年のラマダーン。大きな一なる存在に一人の人間として直接向き合うにはまれなチャンスとなる。サウムとは、もともと「控えること」の意味。飲食にとどまらず、欲望も、怒りや嫉妬も抑制する。「断食」ではなく、「斎戒」の訳語が用いられるのもそのせいである。コロナに奪われた数多くの命の悼みつつ、コロナによって身体的に、経済的に、社会的に苦境に追い込まれているわれわれの状況を共有し、終息に向けて、優先順位を見失わず、時宜に適った過ごし方で今年のラマダーンは過ごしたい。



#食べないことにより体調を崩し、医療の世話になることが、医療崩壊に拍車をかけることにもなりかねない状況。サウムの実践が、人々を生命の危機にさらすようなことを主は望んでいないのではないか。むしろ、自分自身はコロナウイルス感染者であるかもしれないという自覚を十分にもちつつ、免疫力を落とさぬよう体調の管理に努め、施しの実践にかじを切るのも今年のラマダーンの在り方かと思う。

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