バベルの塔の物語では、人々は言語によってバラバラにされた。神は、人間たちが自分を脅かす存在になるのではないかと恐れたからだ。いかにもそのころの神らしい話だ。
バラバラにされた人間たちは、それでも、お互いに通じ合う努力をして、そこそこのコミュニケーションが取れるようになった。
新型コロナが来た。人々はどうしたのか。言葉が通じる者同士のまとまりでコロナから自分たち(だけ)をとりあえず守ろうとしている。バベルの塔の神がほくそ笑んではいないであろうか。
救世主と呼ばれたいファラオたちが神になる。救世主のようでありながら、実はファラオ。実に性質(たち)が悪い。人々は、それに必死に縋るが、救われる者はほんのわずか。それでも人々は、それを「神」と崇める。
私たちに本当に寄り添い、私たちに応えてくれる存在、私たちを最後まで見捨てない存在はいったい何なのか。
それなりに機能している政府に選挙によって代表を送り込んでいるような国に住んでいたとしても、コロナより先に経済に命をとられるという状況である。信じるに足るものは何もない、信じること自体を放棄せざるを得ない状況なのだ。
社会的距離をとれと、政府は言う。前後左右に2メートルの距離。家族であっても2メートルだ。そばにいるから信じられると思っていたものが多くはなかったか。その代表格が家族、そして現金。人間はそもそも群れで生きる。イワシのような群れて生きる魚にもたとえられる日本人の場合はなおさらだ。
宗教は、人間にこの世とあの世の両方での群れ方を教えているといってよいし、社会は、宗教の群れ方が現世に落とし込まれた結果とみることができる。
コロナは、人々が群れること自体を拒否する。群れるといえば、イスラーム教徒の礼拝や巡礼はその最たるもの。シャリーアが教えるアッラーの下僕としての表現が奪われる。
社会的距離を保つ中で、あるいは、周りの人と物質的に密接な距離に入れない中で、その距離の中に私たちが見出すものは何であろうか。
寂しさだろうか。恋しさだろうか。あるいは、苦しさや哀しさであろうか。
もっと目を凝らしてほしい。心の目を凝らしてほしい。見えないものを見ようとする心の目。それでもあなたを包んで守ってくれている存在に気付かないであろうか。元気であったとしても、あるいは病床に付していたとしても、あなたを生かし守ってくれている存在のことに。
それに気づくことができれば、徐々にではあるかもしれないけれど、すべてのことがのありがたさに想いを致すことができる。
寂しさや恋しさは希望に変わり苦しさや哀しさは喜びに変わる。あなたは、最後の最後まで、死んだ後も永遠にあなたを見捨てない、大きな存在の存在に気づくことができているからだ。神はあなたを見捨てることはない、たとえあなたが神を忘れ、見捨てたとしても。当たり前すぎて忘れてしまうのだ。
周りに人が近すぎるとなおさらだ。
コロナがもたらしたのは、群れすぎたことに対する警告である。密閉の距離感で、密接し密集する周りに囚われて、当たり前のことや 本当に信じるべきもの、つまり、生むとか生まれるとかという関係で結ばれる関係ではなく、創造するものとされたものという関係で結ばれている関係を思い出せという警告なのである。
三密の中に巻き取られず、預言者気取りのファラオたちに追随するのではなく、創造主の方を見なさいということだ。
コロナの生みの親は、大局的には、自然をほしいままにしてきた人間の欲望であり害悪であろう。もちろん、コロナ自身であるかもしれないけれど。。しかし、それも創造主たる神の行なったことではある。
乗り越えられない試練を神は与えない。かつてイブラーヒームがそうしたように、創造主への純粋な思いは、社会から人を遠のかせる。バベルの塔の神にはそれを創った神がいた。その神は、あまりにも豊かで妬むことを知らないし、恐れられるばかりで、自らが恐れることは決してない。預言者気取りのファラオたちと比べることができない。
何を信じ、何に縋るのかを、あるいは、何にしたがうのかを、社会から距離をとりながら、考える機会を与えてくれているのがコロナウイルスだとは言えないであろうか。
新型コロナが教えてくれること
ماذا نتعام من انتشار عدوى فيروس كورونا جديد ؟
コメント